目次
1.滅茶苦茶な問題
社会問題としてしばしば話題に上がる語彙力の低下は、本当に深刻だと思います。言霊の幸う国と謳われた日本で言葉が失われてしまうことは、魂が消失していくようにも感じさせられます。
時代の変遷に伴って言葉が変化することは仕方のないことで、日本語に関しては特に変化の著しい言語です。とは言え、なんでもかんでも「エモい」で片付けてしまうのはどうなんでしょ。
若者言葉として流行している「エモい」、ご存知ですか?
「感情的」「哀愁漂う」「趣がある」「グッとくる」といった意味ですが、とにかく感情が動けば喜びも悲しみも全て「エモい」とひとまとめにしてしまうことには、言葉としての寂しさを感じざるを得ません。
「emotional(エモーショナル)」を省略した言葉だと思っていたのですが、「えもいわれぬ(言い表すことも出来ないほど、すぐれている)」からできたという説もあるようです。
その語源を辿ってみると、意外にも昭和の終わり頃からあった表現でした。
音楽業界では1980年代からすでに「エモい」という表現が使われており、2006年ごろから若者の間で使われ始めていました。その後三省堂が開催する「今年の新語2016」に選ばれたことで、さらに「エモい」は広まりました。
フジフイルム スクエア ブログ記事より
https://fujifilmsquare.jp/column/23.html
音楽の業界から生まれた言葉だったのですね。
「エモい」のことをとやかく言う人であっても、「すごい」「めっちゃ」、あるいは「やばい」などを多用する人は少なくありません。僕も無意識でいるとつい使ってしまい、「すごい」「めっちゃ」をつけて形容するのが癖になっているようで嘆かわしく、使い過ぎないように意識しています。
「すごい」に限らず、「うまい」「美味しい」など食事の際なども、もっと別の表現で言い表せると良いのですが、意識してみるとこれがなかなか難しい。
ことあるごとに「すごい」ではなくて、より適した表現で言い表せられる語彙力を身につけたいものです。
ちなみに、「すごい」には本来2種類の意味があります。
- ぞっとするほど恐ろしい。
非常に気味が悪い。 - びっくりするほど程度が甚だしい。
並外れている。大層な。
語源には「直ぐ」「過ぐ」「醜(しこ)」「すこぶる」など、いくつもの説があります。度を越しているということで「過ぐ」、恐ろしい意味で「醜(しこ)」が意味的にも納得感があります。
「やばい」の意味。
- 危険や悪い事が起こりそうな形勢。
あぶない。
こちらの語源も諸説あり、江戸時代の「厄場(やば)」や「矢場」、「危うい」が元になっているのではないかと考えられています。矢場は射的場で、この店裏で違法な取引が行われており、役人に目をつけられると危険だということか「矢場い」という言葉が生まれたそうです。
今は良い意味でも「やばい」を用いられていて、やばいですね。
最近Youtubeで動画や写真のことを勉強していて、内容は良くても、言葉遣いが気になることがあります。
やたらと「めちゃくちゃ」を多用する人が目立ち、気になってしまいます。機会があれば、話している人が何回「めちゃくちゃ」と言ったか、ぜひ数えてみてください(笑)。対面で数えてたら嫌われそう(笑)。
「めちゃくちゃ」と言える場面は、本来はあまり多くないはずですよね。
本来の意味は次のとおり。
- まったく筋道が通らないこと。
- 前後を考えずに事を行なうこと。
- 度を越していること。また、そのさま。
ほとんどが3の意味で用いられていますが、常に度を越しているような感じで、もはや日常的です。
語源は、仏教用語の「無作(むさ)」だと言われています。無作とは、人為的な働きがなく自然のままという意味で、老子の「無為」とほぼ同じ。そこへ苦茶が語呂合わせのようにくっついた説。
もう一つ、客に茶を出さず、また出したお茶が苦いということで、無茶苦茶になったという説もあります。この失礼な行為が転じて、でたらめなことを意味するようになったのだとか。
関西弁?の「めっちゃ」「むっちゃ」「めっさ」などは、語源の字面通りですね。
ちなみに、でたらめ(出鱈目)というのは当て字で、江戸時代に使われるようになりました。博打においてサイコロの出た目で勝敗が決まることから、行き当たりばったりな様を表すようになったとする説が有力です。
滅茶苦茶に限らず、私たちの身近にある言葉には仏教由来のものがたくさんあります。
なかでも、個人的に特に意外だった用語をいくつか紹介しましょう。
以下はこちらの日蓮宗のサイトから引用させていただきました。
https://www.nichiren.or.jp/activity/
「愛嬌」
元々は愛敬(あいぎょう)といいます。
愛し敬うこと。仏教では仏・菩薩の優しく温和な様子を〈愛敬相〉といい、また、人々の和合親睦を祈り、互いに愛し敬う心を起こさせる行動を〈愛敬法〉といいます。
法華経普門品など一般仏典では〈あいきょう〉と読む為に、中世末には〈あいきょう〉とも読んで、のちに〈愛嬌〉を当てるようになりました。
「演説」
『広辞苑』には「多くの人々の前で自分の主義主張や意見を述べること」と定義し、現在は選挙の際につきものとして使用される言葉です。
演説は江戸時代に演舌と書き、演説は福沢諭吉の新造語だと解釈しますが、誤りです。
元来は仏法を説く事、またはその教えを述べる言葉を指します。
古く維摩経などでも「如来は一音をもって法を演説したまひ」などと用いられ、説経や唱導と同じ意味で仏教語として存在していました。
サンスクリット語[s:nirdeśa(ニルデーシャ)]の訳語です。
「覚悟」
一般的には、悪い事態や大事を予測して心の準備をすることを意味するかと思います。覚悟の文字は2つとも「さとる、さとす」という意味の漢字です。覚悟はこの「さとり」を表す2語からなる複合動詞です。
仏教のなかでは、眠りからさめるという意味でも用いられますが、特に「迷いからさめ、さとりに至ること、真理をさとること」を指して使用されます。
「相続」
一般的に「相続する」と言えば、跡目を継ぐことです。
相続権や遺産相続など、法律用語として用いられことが多いですが、元来は仏教語の転用であり、サンスクリット語[saṃtati(サンタティ)]または[saṃtāta(サンターナ)]の訳語です。人間の行為の連続性や因果関係の連続性を表し、本来は仏教哲学の用語です。しかし今日の相続という意味も連続性という意味は失われず相続しています。
「退屈」
日常の言葉としては暇で飽きあきすることを言います。
動詞として「退屈する」という形で用いる事が一般的です。
元々の仏教の用例としては、求道心(ぐどうしん)が退き屈した状態を表します。
仏道修行に挫けてしまい、疲れて嫌気がさしている状態です。
サンスクリット語としては[kheda(ケーダ)]怠惰という言葉や、[hīyaṃana(ヒーヤマーナ)]捨てられつつあるという言葉が多く使われます。
「端正」
一般的には「たんせい」と読みますが、仏教的な読み方は「たんしょう」となります。
容姿端正など使用される言葉ですが、姿形の正しいこと、きちんとしていることを指します。
また、行儀や姿が整っていて乱れることなく立派であること、その身のこなしを表します。
一般的には、外見を指して使用される事が多い言葉ですが、本来はその人の内面を含めた、佇まいやあり方、所作を指して使われる言葉です。
「油断」
油断大敵、油断は怪我の元、などの諺にも使われます。
また、油断するという動詞としても用いられる言葉です。
〈油断〉の起源は多くの仏典に垣間見られます。
例として、『涅槃経(ねはんぎょう)』には、次のような説話があります。
ある王様が臣下に油の入った一つの鉢を持たせ、行動する時にもし油を一滴でもこぼせば、お前の命を断つであろうと告げ、抜刀した家来をその臣下の後につけさせました。
鉢を持った臣下は注意深くその鉢を持ってゆき、ついに一滴も油をこぼすことがなかったといいます。
このように注意深くあることで、油を断つことがなかった、という事から〈油断〉という言葉が生まれました。また初期仏典には、神仏に捧げる灯火を絶やさぬよう、油を断たないように大切にする、という教えも多く存在し、そこから〈油断〉という言葉が生まれたという説もあります。
いずれにしても、古代インドでは〈油〉というものが大変貴重な物であり、不注意で油を損失してしまわないように、戒めの言葉として〈油断〉が生まれました。
「迷惑」
一般的に「迷惑する」というと、ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快を感じたりすること、又そのさま、を指す言葉です。
仏教では『法華経』方便品などにあるように、心の迷いや、道理に迷うこととされます。
〈悟り〉の対義語で、真実の智慧が無く、道理に反したことに対して盲目的に執着することも意味します。
「開発」
開発(かいほつ)と読みます。
一般的には、土地・鉱産物・水力などの天然資源を活用して、農場・工場・住宅などをつくり、その地域の産業や交通を盛んにすること。
また、新しい技術や製品を実用化すること。を指します。
仏教では、教化もしくは修行にかかわる表現として使われます。
文脈によって意味が異なりますが、大別すると3つに分類されます。
1. 迷いや妄想を取り除く
2. さとりに向けて修行しようという心を起こす
3. 他者をさとりへ導くという気持ちを起こす
自分の中に眠る、自分や他者に対する前向きな気持ち〈資源〉を掘り起こし、顕在化させていくことに開発という言葉が使われます。
「自由」
自由(じゆう・じゆ)と読みます。
一般的には、何にも縛られず思いのままであること、古くは勝手気ままな振る舞いにも使われました。
仏教ではサンスクリット語[svayam(スヴァヤン)]の訳語で、独立自在である事、それ自体で存在する事を意味します。
それは「自らに由る」事を意味し、何かに依存せず、寄りかからずに存在しうる、という事から、〈さとり〉の境地を表す言葉にも用いられます。
どれも興味深いですよね。
知っているものもありましたか?
2.憧れと発展
さて、AI時代へと突入し、さらに変化の激しい世の中になっていきそうな今後。新しい技術が楽しみな反面、いったいどこまで発展を続けるのかと疑問も感じてしまいます。
右肩上がり、成長し続けることが良しとされていますが、地球がどんどん膨れ上がっているならそれもあり得るかもしれませんが、いかに循環させていくかに目を向けていかねばならないのは自明です。
これ以上さらに便利になってしまうと、人間は堕落の一途を辿るだけのように思えてなりません。いや、すでに堕落しちゃってますよね・・・・・・。
経済や科学技術の発展とは反比例するかの如く人の心は疲弊していて、仕事も機械やAIがやってくれるなら、本来もっと人間は楽に、豊かになっていてもおかしくないと思いませんか? それどころか、人の仕事は減るどころか増え、少なくとも日本人は働きすぎだと揶揄されているのが悲しきかな現状。
4年ほど前に『ブルシット・ジョブ ―クソどうでもいい仕事の理論―』という本が有名になりました。これぞまさに経済が発展しても仕事が減らない理由だと思いました。
けれども実際、どうでもいい仕事と新たな仕事は減ることがない気がするので、「AIに仕事が奪われる」と危惧されていますが、産業革命の時に機械に人の仕事が奪われると叫ばれながらも結局人間は忙しいままだった歴史を振り返っても、AIに人の仕事は奪いきれないし、奪われたとしても新たな仕事が生まれていくのではと考えています。
むしろ、AIに仕事を代わってもらって、もう少し仕事のストレスから解放されてゆとりを持てば良いんじゃないかと思いますけどね。奪われて何か困ります? それでできた余暇を有意義に使えばいいじゃないですか。
こんなに世の中は発展しているのに、人の心は疲弊して自殺者は年々増え続け、都会という人口過多な地域にも関わらず「孤独死」は深刻化。電車に乗ったら嫌というほど人と密着し、交通の便の良い場所に密集して住宅があるのに、人間関係は希薄で心が孤独な人が多い。だからSNSも流行ります。
孤独死は「物理的に1人で死ぬ」ことより、たとえ家族に看取られたとしても「心の拠り所なく死ぬ」ことの方を問題として取り上げるべき。
また、便利になり過ぎて何もかもが当たり前になってしまい、感謝の思いが欠落しています。何も大昔に戻った方が良いということではなくて、苦労をしないということは、人間が成長するための機会損失であると思うのです。
身体的に、物質的に成長することには当然限界があり、いつまでも右肩上がりであることは逆に問題で不自然です。対して精神的なもの、人の心はどこまでも成長し続けることができます。
生きている限り、欲求はなくなることはありません。その意欲を少しでも早く「物」から「心」へシフトチェンジする、これが大切です。おじいさん、おばあさんになってようやく気がつくのでは遅いんですよ。
発展を望むことは悪いことではないし必然です。ゆえに、「ほどほど」「良い塩梅」というのが落とし所でしょう。また、発展を望む原因の一つは、今回のテーマである「憧れ」にあると考えました。
「憧れ」には、理想とするもの、目ざすものを求めて思いこがれること。また、その気持ち、といった意味があります。
そして、古語の「あくがる」という言葉がもとになっています。
「あくがる」には4つの意味があります。
- 魂が身から離れてさまよう。
うわの空になる。 - 心がひかれて落ち着かなくなる。
思いこがれる。 - ある所から離れ浮かれて歩く。
さまよう。 - 離れて関係が遠くなる。
疎遠になる。
憧れるということは、自分の意識や魂が身から離れてしまうということ。つまり、今の自分自身に満足しないことであると言い換えられそうです。
意識のピンをどこに刺すのか、軸をどこに据えるのかということです。
今に納得、満足して自分に軸を置くと自らを由(よし)とする「自由」になります。奔放ということではなくて、これが本当の自由です。外側に拠り所があると、不安定になってバランスが崩れてしまいますから、他を由(よし)とする「他由?」だけではいけません。
かといって、何もかも意欲を失ってしまうのも良くないですから、その間くらいにピンを置くのが良いかも? と思うと、間をとってちょうど良い塩梅の「間由?」。
いずれにしても、あまり遠くにピンを置くのは考えものです。
3.未練と決断
「憧れのピンをどこに刺すか」の延長の話になりますが、越えてはいけない境界が「分」。分を弁えるの「分」です。この制約・制限があることによって成長の機会が得られるし、楽しさがあると思っています。少なくとも僕の場合は、何の制限もないと堕落する自信があります(笑)。
デスノートに出てくる死神たちは寿命のない世界にいるので堕落していますよね(笑)。サッカーは手を使ってはいけない制約があって、ラインを出てはいけない制限があるから面白みがあるのです。
また、何でもかんでも買いたい放題にお金が使えたら、努力することを怠ってしまいそうですし、必ず病気にならない身体になったら健康には気を配らないですよね。不死身で無敵なマリオのスター状態になったら、身体を大事にしないですよね。物は失うことがあったり、壊れたりするからこそ大事にできると思いませんか?
だからこそ、制約・制限によって狭苦しく感じる必要はなくて、そのおかげで面白みがあって楽しめるということに気が付く視点を持てると良いですね。人生、満喫できるのは寿命のおかげさまですよ。
自分の意欲、憧れの気持ちは己の分を弁えた上で、ピンとくるところにピンを刺せば良い、というのが結論です。そうしてピンを刺したら他の領域は気にしない。決断とは、決めるだけではダメで、断つことがセット。ピンを刺さなかったところは捨ててしまいましょう。
これが由(よし)、これでヨシ(笑)。
5月、とあるご縁で「川島織物文化館」へ訪れ、工場や博物館を案内していただきました。
織物の技術や職人さん達の想いには頭が上がりません。
特に印象に残ったのは、川島織物の三代目の妻である川島絹子さんのエピソード。
大正5年、宮内庁からとても大きな壁掛け装飾織物の依頼がありました。試し織りなどを経て4年後にようやく本番の制作が開始され、職人の手によって1年がかりでようやく5分の1が織り上がります。
ところが、思い通りの色が出ておらず納得がいかない仕上がりだったのです。苦悶の末、絹子氏は夜中に断腸の思いで、作られている途中の織物の経糸を涙しながら切断したのです。綴織という工法において、経糸を切るということは致命的で、再生は望めません。
翌朝、会社では一大事となり、宮内庁へは納品期日を遅らせる連絡をしたためにお叱りがありました。
当時の従業員達は騒然としたことでしょう。しかし、そこに職人としてのこだわり、プロの意識があって、むしろ職人さん達は内心嬉しい気持ちがあったのではないでしょうか。実際に職人として織物に携わっていた絹子氏だからこそ、また女性ならではの強い決断であったのではないかと考えさせられるエピソードです。
その後、納得のいく染料を入手し、それまでは外注で行っていた染色作業を自社で行うことになり、一貫生産体制を確立するきっかけとなりました。そうして、織物業界での不動の地位を築き上げていったのですね。
宮内庁には事情を理解してもらうことができ、納期は遅れたものの無事納品されたそうです。
この切断した綴織は「断機の訓え(英断)」として、プロとして一切の妥協を許さない戒めとなり、今も文化館に展示され、語り継がれています。
この話を聞いて、これは織物に限らずどのような職種であろうと同じことが言えると感じました。費用や期限などの問題で、妥協することがやむを得ない場合もあるかもしれませんが、何かものを作るという作業において、日本人らしさを感じました。
まさに決めることとは、即ち断つことなのでしょう。
4.苦しみと笑い
「断機の英断」のエピソードのように、やはり成長するために苦しみはつきもの。
仏教の救いである阿弥陀仏の働きは、「苦」と背中合わせにやってくるという考え方があります。
苦しむからこそ救いを求め、救いを求めるからこそ仏法を受け入れる準備が整う。苦しみや悩みが何もなければ、だれも救われたいとは思わない、つまり宗教や信仰の必要性は起こりません。
苦悩があるからこそ信仰心が生まれるのです。
「開発」が仏教用語であったことは前述の通りですが、菩提心を起こすには苦悩が必須。かのブッダでさえ、王子として生きながら苦悩したゆえに悟りを開くことになりました。
「苦」は、一般的に「苦しみ」と解釈されていますが、本来「苦」とは「思い通りにならないこと」と解釈するのが正しいと僕は考えています。だいぶ意味が変わってきますよね。
仏教における「苦」は全部で8つ。四苦八苦です。
まず、四苦である生老病死。生まれる(生きる)こと(生苦)、老いること(老苦)、病むこと(病苦)、死ぬこと(死苦)の四つの苦で、人生において免れることのできない苦悩を表しています。
そこへ、愛するものといずれは離れなければならない苦「愛別離苦(あいべつりく)」、怨み憎まねばならない者、嫌いな人や関わりたくない人とも出会ってしまう苦「怨憎会苦(おんぞうえく)」、求めるものが得られない苦「求不得苦(ぐふとっく)」、自分の心身であろうと思い通りにはならない人間の活動による苦「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の4つを足して、四苦八苦と言います。
2500年前に明かされた苦悩は、現在にも通じています。
人間の悩みの根本は、健康(美容)、仕事(将来)、人間関係、お金(物)の4つのいずれかに分類されるという考え方があります。これらと四苦八苦は重なるところがありますね。重ねてみるなら次のような感じでしょうか。
生苦、死苦については、この4つには当てはまらないかもしれませんが、もっとも根源的な問題ですね。
この苦悩といかにして付き合っていくか、向き合っていくかは人間永年の課題。とはいえ、実行するのが難しいだけで答えは出ています。
「解釈の仕方を変える」
これだけです。
『観音経秘鍵』というお経をご存知でしょうか? おそらく空海の『般若心経秘鍵』に似せて日本で創作されたものだと考えられますが、『観音経』の偈文をさらに日本語で要約したような内容になっています。
その中に「生死の病、種々因縁の薬を給う」というフレーズがあります。「生死に関わるような病気にかかったとしても、観音様がその原因を取り除く薬となって働いてくれる」といった意味だと思います。
見方を広くして、あらゆる苦しみは因縁解決の薬、つまり悩みや困りごとが降りかかった時、それは根本原因を解決する機会を与えてくれているのだと教えてくれている、そんなふうに解釈しても良いんじゃないでしょうか。
健康(美容)、仕事(将来)、人間関係、お金(物)。それぞれの悩みが起こった時、きちんと向き合わずに自分自身が変わらないでいると、きっとまた同じような悩み事は繰り返されます。なぜなら、その原因をつくっているのは自分自身だからです。しっかりと根本から変えていかない限り、また同じような結果を導いてしまいます。
そして、制約・制限が与えられることによって、工夫したり知恵を絞ったりする機会となり、成長するための機会となるのです。同じ悩みを繰り返すことは問題ですが、新たな悩みが尽きないことは健康的ということですね。
ちなみに、その悩みの原因は仏教では四諦として説かれ、その解決方法は八正道。参考までに簡単な要約を記載しておきます。
「四諦」
苦諦・・・・・人生の真相は苦である
集諦・・・・・苦の原因は欲望・煩悩
滅諦・・・・・煩悩を断じて、悟りに達する
道諦・・・・・悟りに達する実践法
「八正道」
正見・・・・・偏った見方をしない
正思惟・・・自己中をやめ正しく考える
正語・・・・・正しい言葉使いをする
正業・・・・・正しい行いをする
正命・・・・・世のため人のため正しく生活
正精進・・・正しい努力をする
正念・・・・・真理を求める心を忘れない
正定・・・・・精神を統一し心を安定させる
「悟り」と聞くと大袈裟に聞こえますが、人生が楽になる境地って程度で良い気がします。
先ほどの観音様にしろ、阿弥陀仏にしろ、なんでも良いですけど、とにかく私たちに人智を超えた働きが流れていることは確かです。それをイメージしやすいように、偶像化したり、神様や仏様と仮に名付けているに過ぎません。
「観音菩薩が見えた!」とか「阿弥陀如来が見えた!」とか言う人がたまにいますけど、見えたんなら見えたことは否定しませんが、そもそもお釈迦様の修行時代や悟りに至る過程で王子の身分であった頃の装飾品をたくさん身につけている姿(菩薩)から、そういったものを捨てていき布切れ一枚になった姿(如来)を模して具現化された像ですよね。
実際に「働き」自体がそのような姿をしてるわけではないですから、そう見えたんなら、僕はその人のフィルターを通したからそう見えたのだと解釈しています。育った環境や持っている知識によって左右される色メガネなので、様々な「働き」が、人によってはキリストや天使に見えたり、シヴァやブラフマンに見えたり、観音様や阿弥陀様に見えたり、アマテラスやスサノオに見えたり多種多様なのかなと。知らんけど。
とにかく言えることは「働き」は常に流れている。しかし、その流れをせき止めてしまっているのが私たちの煩悩・我欲であり、それが膨らんで大きくなってしまうと流れが滞って水がよどんでしまいます。全部取り除いてゼロになんて出来ませんが、せめて水が流れる程度には掃除をしておかないと、せっかくの神仏の「働き」が通れません。
流れを止めてしまっている障害物を取り除くチャンスが、「悩み」となって表れ、試練を与えてくれています。試練を乗り越えて障壁を取り除いて淀みなく流れるほど、楽に生きられるということですね。ただラクしたいラクではなくて、もっとホンマの楽です。なんじゃそら(笑)。
そんな試練に終わりはなくて、何かしらの境地に達したからといって終わるわけじゃありません。一つ一つ悩み事に向き合っていくことは毎日の掃除のようなもので、一生終わりがない。レレレのおじさんの如く、日々掃除することが、真に生きることなのです。
レレレのおじさんと言えば、バカボンのパパの「これでいいのだ」というセリフは良いですね。「仕方がない」という諦めの境地を悟った言葉です。
こうあってほしい、という欲が尽きないとなかなかしんどいですが、仕方がないと諦めることができたなら本当に楽です。
レレレのおじさんは「周利槃特(しゅりはんどく)/チューラパンタカ」という人がモデルだと言われていて、お釈迦さまの十大弟子のうちの一人、ひたすら掃除に専念して悟りを開いた人です。
謎の呪文「タリラリラーン」は、多羅(ターラ)菩薩の真言が元になっているとかいないとか。日本ではあまり馴染みがないけど、チベットでは有名らしいです。ターラは瞳という意味で、観音様の左目からは緑色の多羅菩薩、右目からは白色の多羅菩薩が生まれました。
その多羅菩薩の短い真言がこちら。
オン・タレイ・トタレイ・トレイ・ソワカ
さらに、ちょっと長い真言がこちら。
ノウマク・サンマンダ・ボダナンタン・キャロデイ・ドハベイ・タレイタリニ・ソワカ
タレイ・トタレイ、タレイタリニ・・・・・・あたりが、多羅菩薩を表していると思うのですが、「タリラリラーン」に似ていますね。タリラリラーンの元になっているのでしょうか。
ややこしい真言は覚えなくても、バカボンのパパが言ってくれているので、
コレデイイノダ・シカタナイノダ
オン・タリラリラン・ソワカ
で良いんじゃないですか(笑)。
苦難がやってきて、どうしようかと思い悩んだらこの真言を唱え、どこか遠くの理想に憧れるのではなく、笑って今を受け入れて向き合ってみてはいかがでしょうか?
死ぬほどの悩みなんてこの世にないですよ。重くしているのはいつも自分自身だということを忘れないでくださいね。
それと、死ぬことも悪いことじゃないし、僕は死んだことがないので知りませんが、死ぬ時って絶頂の快感を味わえるって思っているんですけど、どうなんでしょう。
とにかく、死にそうな時であろうと笑っていられるように、日々の試練で心を鍛えておきましょう。
最後に、先ほど紹介した「八正道」をもじって、人間の悩みの根本原因が自分に降りかかってきた時に思い出す呪文を作りました。テストに出るから暗記しておいてください(笑)。
名付けて「八笑道」です。以前もこんなパロディつくったような・・・・・・まあいっか。コレデイイノダ。
悩んだら、仕方がないと諦める。
諦めたら、笑うしかない。
どんな困難も、コレデイイノダと受け入れる。
「笑い」は「祓い」に通じていますから、神仏にあれこれ願わなくても、しっかりと障害物を取り除く掃除さえしていれば、神様も仏様も常に私たちに流れ続けています。
どこかへ神頼みに行ったり、パワースポットへエネルギーをもらいに行ったりする人に限って、心の掃除ができていない。本当はただチリを祓うだけで充分なのに。
追伸;
今年はホタルがたくさん見られて、家のベランダからも見えるほどにたくさん見られました。それだけで嬉しくて、酒の肴になります。そんな蛍の写真を撮って、その写真で「螢」と書いてみました。
このシリーズ(ってまだ一つだけですけど)が気に入って、たとえば雨の写真で「雨」、雲の写真で「雲」、街の写真で「街」と書いたりして遊びたいなと思っている今日この頃です。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。