目次
1.日本の歴史と文化
国学者である本居宣長は「事に触れて感(うご)くのが情(こころ)」であり、それがものの「あはれ」だと言っています。現在では「あはれ」と言えば悲哀の意味ですが、本来はもっと広い意味で用いられていました。うれし、おかし、たのし、かなし、こひし、こういった情に感ずることはすべて「あはれ」なのです。「エモい」の昔版のようですね。
先日、知人に誘われて書道展へ行った際、先生の字から生徒さん達の字までならべてあったのですが、書を見ていくつか情(こころ)が感(うご)いた作品がありました。特に自分の目が肥えていたり、書道のことを分かっていたりするわけではないのですが、確かに心の奥が動く作品があります。これは書道に限らず、芸術的なもの、壮大な自然、感動的な出来事によっても起こる「あはれ」だと思います。
ものに「あはれ」のある作品は触れていて心地の良いものです。他の作品がダメというわけではありませんが(もちろん技術的に気になる場合もありますが)、どちらかといえば頭で考えて見てしまっている気がしました。
6月の終わりに東京へ行った際は、あちこち訪れながら自分の心の動きを観察していました。確かに情が感く瞬間があります。そこに「あはれ」があるのでしょう。
「こち亀」懐かしい〜(笑)
亀有、松陰神社、鹿島神宮、江ノ島……。
インスタに写真アップしてるので、よければ見てください。
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また宣長は、嬉しい時に嬉しいと感じ、悲しい時に悲しいと感じる、これが真心だとも言っています。ポジティブな姿勢が良しとされがちですが、そうではなくて、その時そのまま、何も飾らずに感じ受け入れることが、日本人の情緒でもあると思います。
別れ際の挨拶、英語なら「See You Again」や「Good luck」。
英語に限らず、「また会いましょう!」や「無事を祈る」など、別れ際の寂しさを、「また会う」という未来の想像や、別のことに置き換えることで紛らわせる挨拶は多く使われています。
日本語の「さようなら」のもと「左様であるならば…」は、気を紛らわせるのではなく、その場面をありのまま受け入れる。このような心の強さこそ日本人の情緒じゃありませんか?
日本の歴史は、縄文時代にまで遡ります。争いの形跡がなかったことや、当時の出土品から芸術性に富んだ時代であったことが分かっています。稲作も、実は弥生時代に入ってくる以前から行われていたことも最近明らかになってきました。
平和と信仰、芸術によって、とても豊かな時代であったのではないかと想像できます。
そんな縄文人が祖先だと思うだけで嬉しくなってきます。まさに日本人の誇りを感じるところ。
また、男系に受け継がれていくY染色体の研究によって、現代にも縄文のDNAが残っていることが分かっています。このことを直感的に理解して、天皇家は男系で継承していたとするとスゴイですね。
そんな日本は王室としては世界最古。なんと今年で2,684年目になります。古事記・日本書紀の数字を鵜呑みにしてしまうと正確な年数は分かりませんが(初期天皇の年齢は100歳を超えていることがあるため、実は歳の数え方が2倍である説などがあります。初代神武天皇で127歳、第11代垂仁天皇は140歳。反対に若くして崩御されたのは第3代安寧天皇で57歳、第14代仲哀天皇は52歳。半分でちょうど人の寿命な気がしますね)、実際の建国時期はもっと新しかったとしても、記紀成立からは1,300年以上が経過しており、その間少なくとも王朝は変わっていません。
2番目に長いデンマーク王朝でも、 ヴァイキングのゴーム王が936年に即位したことが始まりとされていますので、日本の記紀成立時期はそれよりも200年ほど前。日本の天皇は圧倒的に世界最古の王朝です。
これだけでも、日本人としては誇れる事実。
他と比べてどうかというのを自信を持つ根拠にすると危ういですが、事実として理解しておくことは大切です。
事実と言えば、日本って小さな島国だと思っている人が多いですよね?
実は意外と大きくて、列島ではなく本州だけで世界の島ランキング7位。あれ、微妙な順位?笑
ランキングはさておき、視覚的に日本の大きさを勘違いしている人は多いはずです。一般的な世界地図でも、私たちがよく使うGoogleマップでも「メルカトル図法」が採用されており、日本は主要国と比べると位置的に赤道に近いため、小さく見えてしまうのです。
実際のサイズを比較するアプリケーションで日本を他の国に重ねてみると次のようになります。
ロシアってとてつもなく広く感じますが、日本の国土で南北を縦断できる距離なんですよ? オーストラリアやカナダのあたりで比べてみても「日本って思いのほか大きい!」って感覚になりませんか?
ヨーロッパの主要な国々に関しては、日本の方がよっぽど大きいことが視覚的に感じられます。
他より大きいことを名誉や誇りにはできませんが、過小評価する必要はないですよね。実は思ってるより大きいんですよ、日本(笑)。
次に、日本の文化に目を向けてみましょう。
価値観、言語、食文化、宗教に的を絞って、とりあえず思いついたことを挙げてみました。
他にもこんなのがあるよ!って意見ありましたら、どしどしご連絡ください。
①価値観
・種のために死ねる
全肯定できるものではありませんが、「神風特攻隊」がお国(全体)のために命を捧げたような感覚をどこかで持っています。あるいは銃火器に対して竹槍で挑めるような感覚です。
これはミツバチと似ている気がしました。ミツバチは、危機を察すると種を守るために敵を襲います。ミツバチの針は「逆棘」と呼ばれノコギリの歯のようになっており、刺すと抜けない仕組みで、針を抜こうとしたら最後、針が腹と共にちぎれて死んでしまうのです。身を挺して、個体ではなく全体、種を守ろうとする、まさに昆虫界の神風特攻隊です。
・お日様とお陰様
「誰にもバレないから良い」という考えではなく、「お天道様は見てござる」と自分を制する精神があります。また、物事がうまく運んだ時、自分だけの手柄だとは思わずに「おかげさま」だと思える謙虚さがあります。お日様とお陰様が、常に自分とあるのですね。
・「時分の花」と「まことの花」
これは世阿弥の『風姿花伝』にある言葉ですが、前者は物理的な美しさ、後者は精神的な美しさを表します。美女と呼ばれるのに肉体的には20代が一番の盛りかもしれませんが、歳を重ねるごとに真の美しさはより深くなっていくものです。現代では「時分の花」ばかりに注目されて、若返りや老化防止に躍起になっていますが、「まことの花」の美しさを見つめ直したいものです。
・「レディーファースト」と「お先にどうぞ」
レディファーストの起源は中世ヨーロッパに遡り、女性を食事の毒味役にさせたり、歩いている時には先に歩かせて盾にしたことがもとになっていると言われています。日本ではそういった下心からではない「お先にどうぞ」と譲り合いの精神がありました。
・「ハレの日」と「ケの日」
お祭りや儀式、年中行事、非日常が「ハレ」、日常が「ケ」。陰陽、浮き沈み、時間と共に盛衰する自然の流れを理解していたからこそ、必要なときに必要な対処をして、メリハリをつけていました。そうすることで気が枯れないようにコントロールしていたのです。日常の仕事で疲れて気が枯れてくる、そこでお祭りをして羽目を外して楽しむことで英気を養い、また日常へと戻っていく、といった感じでしょうか。
・ダジャレで験を担ぐ
日本の文化といえば、ダジャレの文化だと思っています。受験の際には、「スベる」が禁句となって、スキーやスケートに行かないようにし、勝負事がある際には「カツ丼」を食べるなど。身近なところに語呂合わせやダジャレが溢れています。これは、言霊を大切にする文化だからこそ、言葉には命が宿っていて、同じ響きの物事に対して相通じる心を見出していたのでしょう。
②言語
・「日本語」
漢字には音読みだけでなく発祥の中国にはない訓読みがあり、ひらがな、カタカナ、そしてカタカナ英語。普通、他国から侵略されたり、大きな影響を与えられると言語が変わってしまいます。しかし、日本ではさまざまな言語が入り混じった特異な言語へと育ってきました。文学作品などをみると、聞いたこともない熟語が出てくるように、物事を表す言葉の数が非常に多い。色の名前にしても何種類ありますか。青系だけでも、空色、水色、天色、藍色、紺、群青、青藍……もっともっとあります。
一つのことを言い表すのに適した言葉の数が多い分、覚えるのは大変。また、正しく伝える道具としては不向きで、ラテン語とは対照的で曖昧で分かりにくい言語です。そんな日本語が好きですけどね。
・オノマトペ
日本人の脳は、音を左脳で理解すると言われています。普通は音を右脳で理解、つまり感覚的にキャッチします。ところが日本人は逆で、言語脳で理解するため、雨の音も蝉の音も犬や鶏の鳴き声も、独特なオノマトペで表されるのだと考えています。英語で鶏の鳴き声は「Cock-a-doodle-doo」で、日本語は「コケコッコー」。英語の方が元の音に忠実でリアルですよね。日本語は独自にデフォルメされているのです。その理由が、言語脳での音理解にあるのではないでしょうか。
③食文化
毎日食べても飽きないおむすび。これぞ日本のソウルフードだと思いますが、具材に何を入れてもマッチする調和の精神を表していると思います。カレーライスやカレーうどん、ラーメンやラーメンライス、これらはもともと外来の食文化ですが、日本で独自にアレンジされて、日本のラーメンやカレーはもはや元の味とはかけ離れた日本食へと昇華しました。
・お供え
お供物は仏教起源のものもあって、一概に日本独自の文化とは言えないかもしれませんが、お供物も日本の文化の一つかもしれません。またよく調べてみます。
④宗教
神道を主軸として仏教と習合し、クリスマスやハロウィーンを楽しみ、国語を『論語』で勉強する。しかもスゴイのは、普通なら自国の宗教を上に位置付けて外来の宗教を下に取り込むものですが、日本では神道の上に仏教を置いたところに驚かされます。大日如来がアマテラスの化身だとするのではなく、アマテラスが大日如来の化身(本地垂迹)ということにしたんですよ。プライドとか変なこだわりがないような感覚が爽快です。もちろん、仏教が伝来した際は争いもあったし(蘇我氏と物部氏の争いですね)、すんなりといったわけではないでしょうが、本地垂迹という形に着地したことは事実。
また、論語を実践できなかった中国の人(なかなか実践できないから今でもあちこちにスローガンを掲げるのでしょうか?)は、それを実践できている日本人を尊敬していたという話を聞いたことがあります。今は知りませんが。ただ、それは実践できていたのではなく、日本人にはそういった素地がもともとあったのだと考える方が自然かもしれませんね。
八百万の神の考え方は、全ての物事に神が宿っているという稀有な思想。だから古くなっても物を大切にできるし、自然と調和的な生活ができる。それが悲しいかな、ちょっと古くなったり壊れたりしただけで修理もせずにゴミにしてしまう現代。世界が掲げているSDGsより、世界中が見習うべきあり方の手本が日本の精神にはあったと思います。古き良き日本の文化に目を向けて、見習うべき精神を復興していくべきです。
ちなみに神社にお参りをして手を合わせる時、右手が我で左手が神となります(仏教では右が仏)。ですから拍手を打つ時、謙虚さを表すように右手(我)を少し手前に引きます。
他にも、左手は火で右手は水と考えられ、お酌をする際は上に立ち上る火の左手は上に向け、滴る水の右手は下に向けて瓶を持つ。人間の体にも神が宿っていて、それが自然と所作を形づくるというのは素晴らしいことですよね。
挙げればキリがなくなってきそうな日本の文化。自分が日本に生まれて日本に生きているからには大事にしていきたいと思うようになりました。わたしたちの先祖が醸成してきた「軸」を中心に据えながらも、新たに入ってくるものを拒まず、うまく調和させていく。これぞまさに「和のこころ」、「むすびのこころ」です。今後いかに時代が移り変わろうとも色褪せない大切な心ではないでしょうか。
2.「わ」の由来
日本が「倭(わ)」と呼ばれてきた由来には諸説あります。いくつご紹介しましょう。
ちなみに、「倭」が最初に登場するのは『山海経(せんがいきょう)』という書物です。
その他の書物に度々登場しますが、なぜ「倭(わ)」と付けられたのかは、実のところよくわかっていません。『国号考』のなかで本居宣長がそう言っております。
また、古事記では「ヤマト」という言葉を「倭」で表し、日本書紀では「日本」をヤマトと読ませています。
古事記や日本書紀など読んだこともなく何も知らなかった頃、「日本武尊(ヤマトタケル)」を祀ってある神社を訪れて「ニホンブソン」と読んでいました。はずかし(笑)。
「ヤマト」に関しては、山を住居にしていたから「山戸」、山に足跡を残していたから「山跡」と呼んだ説などがあります。「日本(ひのもと)」は、日下(ひのもと)、日出処(ひいずるところ)、「日本(にっぽん)」は、日辺、日域という言葉が元になっているといった説があります。
「倭」から「日本」へと変わったのは、おそらく大宝元年(701年)からだと考えられます。
その翌年702年に遣唐使である粟田真人を派遣し、「日本」宣言をしました。唐代の歴史書『唐書』には、倭国から日本国になったことを則天武后が発表していることが記されています。
日本のことは、記紀以前の記録は中国の歴史書に頼るしかないのですが、『後漢書』あたりから記述が見受けられます。その次は『三国志』で、「魏書」の第30巻、烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)倭人条という箇所に記載されています。「魏志倭人伝」とはこのことで、実際に「魏志倭人伝」という書物があるわけではありません。調べて知るまでは本のタイトルだと思っていましたよ(汗)。
平和を意味する「和」の出自は、論語からきていると思われます。和することと同ずることは同じではなく、本来は和することが大切なのに、ただ同じてしまっていることと混同されがちな現代。同ぜず和することを心がけましょう。
十七条憲法で有名な「和を以て貴しと為す」の言葉は、『論語』の「学而第一」にその原点となりそうな句が見つかります。
なんと言っても、「和」って良い言葉ですよね。
3.神仏儒の習合
イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーは、民族が滅亡する3つの条件を提示したとして、よく引用されています。次のような文をご存知でしょうか?
①自国の歴史を忘れた民族は滅びる。
②全ての価値を物やお金に置き換え、心の価値を見失った民族は滅びる。
③理想を失った民族は滅びる。
歴史を振り返ると、このうちどれか一つでも当てはまるとその民族は必ず滅びているそうなのですが、出典を辿っていくとどうも尾鰭がついて広がったような気もするのですが(というか、何を基準に自国の歴史を忘れたか、心の価値を見失ったか、理想を失ったかを判断するんだ!?笑)、それなりに頷けることでもあるので、とにかくこの3つの条件を元に考えることにしましょう。
逆を言えば、この3つの条件を忘れなければ民族は滅びない、つまり繁栄していくと言えます。
ところが今の日本に目をやると、偽りの歴史教育によって自国の歴史を忘れつつあり、行き過ぎた資本主義によって心の価値よりも物やお金の価値を優位に置いてしまいがち、理想どころか私利私欲のために行われる政治……。どれか一つ当てはまるどころか、民族滅亡条件を見事コンプリート状態!?笑
今月から新一万円札の発行が開始されましたが、渋沢栄一ではなくてもっと文化的な人が良かった、なんなら聖徳太子に戻して欲しかったと個人的には思っているところです。そうでなくとも、まだ福沢諭吉の方が文化的であったと思います。もちろん、渋沢栄一の業績や精神は素晴らしいと思いますが、そうじゃなくて……って感覚です。
ところで「日本人」とはいったい何なのか? 辞書で引くと求めている答えは出てきませんが(笑)、良くも悪くも流されやすい人種だと思います。協調性があると言えば聞こえは良いですか?
ゆえに洗脳を受けやすい民族だから、賢いGHQの戦後の政策に日本の民族性は拍車をかけたのかもしれません。
洗脳をする時、価値観がまだ固まりきっていない子供の教育で施せば容易で、しかも大人になってからその植え付けられた洗脳を解くには根拠と論理が必要になる。でも、「なぜそうなんだ?」って問いにすべて理由が付けられるわけではないから、脱洗脳はなかなか難しい問題です。何をどう洗脳されているかは、ここでは言及しませんが。。。
以前、長野の「満蒙開拓平和記念館」を訪れました。中国の満州へ行った時にも感じた「双方の思い違い」と、歴史的な事実を見るだけでは見えてこない当時の「その場の雰囲気」。
国民を煽って開拓団になることを夢見させておいて、いざ実際に行ってみると地獄だった。そんな情景が記念館のなかで伺えました。こんなのに騙される奴がいるのか? と現代なら客観的に思えるかもしれませんが、プロパガンダのポスターによって多くの国民が洗脳されていたのです。残されていた手記には、ざっくり言えば「思っていたのと違った」的な内容が多かったです。悲しいことですね。
また、長野県はダントツで満州へ行った人数が多かったそうです。この図を見たのは数年前なのですが、最近また長野へ行く機会があって縄文の遺跡や博物館を訪れました。当時の長野県民は実際、困窮疲弊していたから新天地に夢を見たのかもしれませんが、長野には縄文の遺跡が多いだけでなく、縄文人のDNAが色濃く残っていたりして……と思いを馳せました。
今、文明の発展とともに、日本はどこか危うい方向へ向かっているような気がしてなりません。本来進むべき道に正すには、もはや個人の力ではどうにもならなさそうです。
それでも一人一人ができることをして、伝えられることを伝えていくしかない。大したことはできなくても、世の中に大きなツメ跡は残せなくても良いから、引っ掻き傷ぐらいをちょこちょこ残して死にたいなと思うところです(笑)。
経済発展によって、個々の力や「仕事のやりがい」が分断されました。だからこそ部分的なことしかできないのではなく、ある程度のことは自己完結できるような力を養っていく必要があります。百姓は、「百の性(かた)」つまり様々な職能を持つ人のことを言い表しています。これから目指すべきは、現代版百姓。なんでもできる力はきっと役立つことでしょう。師事している先生の言葉を借りるなら、目指すは「小さな巨人」です。
話があちこち飛んでしまって申し訳ないですが、先述のトインビーの民族滅亡条件をポジティブに捉え直して、日本人の精神性を当てはめると図のようになります。
神道、仏教、儒学が見事に統合された信仰こそ、日本人の心を形成してきたのではないかと思います。これに即した教育、仕事、あらゆる活動の根本としていくことで、素晴らしき日本の精神を養っていけるはずです。
『日本書紀』の十七条憲法にある「篤く三宝を敬え」は仏・法・僧の仏教の教えを表していますが、『先代旧事本紀』では神・仏・儒のことを指しています。神仏儒に限らずあらゆる精神をむすんでしまえるのが「和の情」。おむすびという土台がある限り、全て受け入れようとも軸は揺るがない。そこにあるのは日本人の魂なのです。土台がなければ雑多、土台によって統合されてこそ初めて多様性が生まれる。今の世の中は口先だけ多様性と言ってますが、実のところはほとんど雑多。
言うてる僕も散らかってますけど。パスタのアルデンテのような物理的な芯ではなくて、おむすびにある精神的な芯を失ってはいけないのです(なんのこっちゃ)。
4.和の情
神仏習合や本地垂迹についてはご存知の方も多いと思いますが、実際に神道と仏教が結び合った文献を読んだことはあるでしょうか?
鎌倉時代、室町時代のもので、アマテラスと大日如来が手を取り合ったような文章が残されています。
そして、「わ」から「やまと」という音になったことで、言霊的にも変化が見られます。言霊の音の意味を見てください。
多種多様な広がり(や)の音が、真理(ま)と統合(と)されていくような意味があります。
「わ」も円満充足の意味があって、音義的にも好きです。
「やまと」も「わ」も、日本人やその精神を表すのにどちらも良いですね。
言霊や音義説については、またいずれ……。とりあえず、五十音には意味があるってことで。
「わ」は昔、自分のことを表していていました。輪っかの「わ」でもあります。
仏教では、小我という個人的な小さな器から、大我という自分を超えた無差別の世界を目指します。修行法は様々で、「我を捨てるのではなく我を大きくしていく」という考え方もあり、僕はその考え方が好きです。自分のことを指す「わ」をもっと大きく育てて、「私」から「公」へと、「わ」を広げていくことが人間に求められている成長ではないでしょうか。
そうすれば、いずれは世界が一つの「わ」になることもできるはず。知らんけど。
小我として個人的な「わ」を育てるのも、大我へと発展させて世のため人のために動くのも、結局は通じていて、実は究極の自己中が世界平和への道だったりして。
好きなこと、得意なこと、役立つことを一生懸命やって、理想をもって心の価値を忘れず、歴史をしっかりと学んでいくことが真に生きる道。和と大和、小が大を兼ねて、大も小を兼ねていく気がします。
日本の精神として、先祖が大切にしてきた忘れたくない心には様々な側面があって、何となくは分かるけど捉えにくい。うまく表現できているかは分かりませんが、自分の子供や、次の世代にも残していきたい日本の精神を図解するとこんな感じでしょうか。
今回のテーマは「情」。そして勉強会のタイトルでもある「和の情(こころ)」。
数年前、これを定義としてまとめまして、今回久々に振り返っていました。当時、あまり考えずにつくった言葉なので、変えたくなるところあるやろなーと思いつつ引っ張り出してきました。
すると思いのほか、今見返しても「まあそんな感じかな」と思えたので今回出すことにしました。これは今の自分にとっても生きる指針のようになっています。
「情」を「こころ」と読むのは、実は岡潔という天才数学者の影響です。岡潔は、日本人に流れる西洋人にはないこころを発見し、それが真情(まごころ)であると言いました。
人間の精神活動の根本である知性(知)と感情(情)と意志(意)。
知・情・意のそれぞれは、西洋では「情=感情」「知=知識」「意=競争心」であると岡潔は言います。感情が一番表層に出て、多ければ多いほど良い知識を詰め込み、他と競争することで達成感を味わうことを主体とする「第一の心」。第一の心が小我で、無明とも言います。
さらに東洋では第二の心が目覚めていて、意識は競争心ではなく「向上心」、知性は知識でなく「智慧」。東洋の修行場面を思い浮かべると、向上心がモチベーションになっていることがイメージできますよね。多ければ良いという知識ではなく、一つしかない真理を見極めるのが智慧。これらを「第二の心」と呼び、大我あるいは真我に目覚めた状態です。
そして、東洋の中でも日本人はさらに奥の意識に目覚めている。それが、感情とは違った情緒「真情(まごころ)」。これは喜びと懐かしさの世界。他者の喜びを喜び、悲しみを悲しめる世界。前述した、まさしく「あはれ」の世界です。
漱石の『草枕』には「憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である」と書かれており、最後は「憐れ」で締めくくられます。「情に棹させば流される、智に働けば角が立つ、意地を通せば窮屈だ」という知・情・意の本質、まさに無明たる「第一の心」を見出したところから始まって、「あはれ」に辿り着くのです。
第二の心を言葉で装飾するなら
意志を貫けば自由になる。
智慧に依れば波風立たぬ。
真情の帆を張れば長閑だ。
といったところでしょうか。すみません、夏目先生(笑)。
日本人の「真情(まごころ)」とは即ち「あはれ」。それはもっとも神に近い人間の情なのです。神に近い情に目覚めているからこそ、八百万に神性を見出し、神と共に、自然と共に調和し、歴史と共に歩んできた誇り高きサイヤ人の王子……もとい、誇り高き民族、それが日本人なのです。
辞世の句に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と詠んだ吉田松陰。もののあはれを捉えた本居宣長、憐れで結んだ夏目漱石、真情を発見した岡潔、皆んなきっと同じ「日本人のこころ」を表しているのだと感じています。
それを僕も自分の言葉で(借りてますが)表すなら、「和の情(こころ)」というのが一番しっくりくるわけです。
だから「和の情」なんです。
今回は特に言いたいことが散らかってしまいましたが(毎度のこと)、最後までお付き合いいただきありがとうございました。