目次
1.みる
リフレーミングってご存知でしょうか?
物事の枠組みを変え、違う視点から見ることを意味する心理学用語で、枠組み(フレーム)を捉え直すから「Reフレーミング」って意味です。
例えば、嫌なことがあって「嫌だな〜」って感じた時に、「これは自分にとって成長のチャンスなんだ」といった具合に状況を捉え直して、前向きに考えを変えるがリフレーミング。
前向きに限定はされてないと思うのですが、あんまり後ろ向きに捉え直すようなことはないですね。
そんなリフレーミングはここ4、50年ぐらいの間にできた新しい手法で、言葉こそ最近できましたが、行為自体はもっと昔から行われていました。
例えば古代ギリシャ。1世紀から2世紀にかけて活躍した哲学者エピクテトスがその一人。
彼は、哲学者としては珍しく奴隷出身で、しかも足が不自由でした。
神から与えられた役割を全うすることの重要性を示し、人はそれぞれ劇の演者のようなものであると説きました。
演者として与えられた役割は主人公であるとは限りませんが、他の役割を欲することはナンセンス。それは自分の力ではどうにもできにない。劇作家たる神にのみ与えられた権力。
変えられないものをどうにかしようとするのではなく、視点を「変えられるもの」にのみ向けることで幸福を得ることができるという考えは、昔からあるのです。
さらに昔、2500年前。インドでは今なお続いているカースト制度がありました。そんな制度を変えることはできないけれど、自分がどんな階級であろうと人は苦しみから解放されるのだと悟った人がいます。
そう、それがお釈迦さまですね。
聖人や哲人は、リフレーミングによって心を解放してきたのです。
ちなみに、「みる」という字には、見、観、視、診、看があります。
診と看は診察や看護のことを指すので、他三つを比べてみましょう。
「見る」と「観る」は辞書ではほぼ同義。「視る」には注意深く見る意味があります。
白川静の『字統』を参考にして、意味と字源を整理すると次のような感じでしょうか。
微妙に意味が違うけど説明がしにくい。でも日本人ならなんとなく違いを理解できそうな気がして不思議です(笑)
「みる」といえば、浄土真宗の危機を救った蓮如というお坊さんと一休さんの有名な逸話があります。
あるとき一休さんは、曲がりくねった松に
「この松を真っすぐに見た者には、金一貫文を与える。」
という立て札を立てました。
今の貨幣価値に換算すると、細かく分かりませんが賞金2、30万円ぐらいでしょうか。
この木を「真っ直ぐに」見れた人はいますか?
さて、どう見るのが正解なのか。蓮如上人はすぐに答えが分かり、一休さんを訪ねて答えが分かったと伝えに行きました。
すると、一休さんは
「立て札の裏を見てこい」
と言って、突き返しました。
蓮如上人は元の場所に戻って立て札の裏を見てみると、そこには
「ただし、蓮如は除く」
と書いてあったそうです。
さすが、トンチのきいた一休さんは一枚上手だったようですね。
では、真っ直ぐに見るとはどういうことなのか?
曲がった松を、横から見るのでも、違う視点で見るのでもなく、ただ「ありのままに見る」ということです。
つまり、曲がりくねった松を「曲がりくねった松」であると見るのです。
いじわるな問題ですが、現実に置き換えても真っ直ぐに見るのはなかなか難しい。
だれもが色眼鏡をつけて物事を捉えているわけですから、簡単にはできません。
そうやってありのままに見ることを仏教では「正見(しょうけん)」と言います。
その難しさを比喩表現した「三聖吸酸」という中国の故事があります。
酢が入った瓶がありました。
その酢を、孔子、老子、釈迦、三人の聖人が飲みました。
そして孔子は「酸っぱい」と感想を述べます。
次に老子は「甘い」と言います。
最後に釈迦は「苦い」と言いました。
この酢が、宗教観や人生観を表しているのです。
人生の真理は「苦」であると見出した釈迦に合わせて他の二人を加えたのでしょうか。
とにかく、お釈迦さまが見出した真理は「人生は苦である」ということ。
2.仏教の原点
「苦」の真理は、四苦八苦という言葉で現代にも生きていますね。
四苦八苦は大変な苦労を指しますが、元の意味はちょっと違います。
これは僕の解釈ですが、苦は「苦しい」という意味ではなく、「思い通りにならない」という意味が本来の意味に近いと思います。
前述したエピクロスが見出した、「思い通りにならないことをどうにかしようとすることは諦めろ」という考えに通じます。
そして、その苦から脱却するプロセスを「四諦(したい)」と名付けました。
「諦」とは真理のことで、4つの真理を表しています。
「三聖吸酸」の酢です。
そして、四諦の最後「道諦」が、実践方法である「八正道」へとつながっていきます。
言うは易く行うは難しって感じでしょ。↓↓
さらに悟りへ至るための道が「六波羅蜜」。
八正道よりもう一歩先といった感じでしょうか。
雑に要約するとこんな感じでしょうか(笑)
八正道や六波羅蜜を実践すことで悟りの境地「涅槃」へ至れるというわけです。
考えたら当たり前のことな気もするのですが、しっかり実践するのは難しい。まあできる範囲で頑張ったらいいんちゃいますかね〜。
3.観音力
法華経というお経の第二十五章に「観世音菩薩普門品」があります。この内容を要約した偈文(漢詩でお経の内容を表したもの)が、「観音経」として親しまれており、龍神祭でも毎回お唱えするお経です。
偈文にはないのですが、全文には観音様があらゆる姿になって衆生を導くことが書かれています。
三十三の姿になって教えを説いてくれるそうで、これが西国三十三所巡礼などの数の由来となっています。
ちなみに観音経の全文は次の通りで、偈文は最後の青字の箇所。3分の2ぐらいハショってあります。
三十三身に変化することが書かれているところは赤字で示しています。
その部分だけ抜き出してみましょう。
「仏の姿によって教えを説けば救われる人」に対しては「仏の姿」で教えを説く。
その人が救われるように、いわばその人のレベルや個性に合わせてあらゆる姿になって教えを説いてくれるのが観音様であると書かれているのです。
だからしっかり供養しなさいってことで締め括られます。漢文は省略して語訳だけ載せておきました。
まとめると、三十三種類の姿に変身できるのではなく、変化の例が三十三提示されているだけで実際には無限に変化し、ありとあらゆる姿となって人々を救うということです。
三十三の変身例については簡単な解説をつけておきましょう。
4.インボイス
社会で人と関わっていると、苦手な人、嫌な人、怒ってくる人、合わない人、イラつく人など、できれば近づきたくないような人と出会ったり、一緒に過ごさないといけない場面は誰にでもあると思います。
しかも、例えば嫌味を言ってくるような人とやっと縁が遠のいたと思ったら、また同じような嫌味を言ってくる人が現れることがあります。
そう言う人を「ありのままに」正見してみると、嫌味に感じたとしても実はその言動や行動と、自分の感情が直接つながっているわけではなくて、嫌味に感じる色眼鏡をもって解釈しているに過ぎないのです。
もしかすると、実はその人が自分を正しい方向に導くために気づきを与えてくれていて、その気づきを得られていないから何度も同じようなことが繰り返されているのかもしれません。自分の成長の機会が詰まっているのに、真正面から向き合わず「またか〜」と逃げてばかりいると、機会損失を増やしてしまうだけなのです。
ぜひ、これは神様から与えられた課題なんだと解釈して色眼鏡を外してみると、自分の心から内なるボイスが聞こえてきてきっと必要な方向へ導いてくれます。そんなメッセージをキャッチしてください。心のインボイス制度です(笑)
とにかく、出来事に良い悪いはなくて、すべては自分が歩むべき道へと促してくれているとリフレーミングできたら、人生きっとおもしろくなってきますよ。
現代の人間社会で生きている人は、基本的には何かしらの仕事をして、その対価を得て暮らしています。仕事をするということは、人の役にたつということ。言い換えれば、人は他人のために何か役立つことをして生きているわけです。
仏教では悟りを求めて衆生を救うために働くもののことを菩薩と言います。幸福を求め、仕事をして生きるということは、まさに菩薩道じゃありませんか?
仕事をしている人はみんな菩薩ってことです。
ということは、社会で関わる嫌な人も実はみんな菩薩。関わる人全員が菩薩なのです。
観音様はありとあらゆる姿に変化して人々を導く菩薩。そこらへんの人に変身してるんです。
そう考えると、もしかしたら関わる人はみんな観音菩薩の化身で、自分を救いにやってきてくれている。しかも自分が気づきやすい方法で。それでも向き合わずに気づかないから何度も何度も姿形を変えてまたやってくる。
・・・・・・そう信じるのが、観音経偈に何度も出てくる「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」だと思っています。
「念彼観音力」は、かの観音様の力を念ずれば、観音様が救いにやってきて、あらゆる苦悩から救ってくれる、というオマジナイみたいなものです。
それは観音様に救ってくれと願うのではなくて、出会う人はすべてが自分を導いてくれる観音菩薩なのだと念ずること。それがホントの意味の「念彼観音力」なんですよきっと。
進むべき道を逸れたら、「コッチちゃうで」と観音様が導いてくれる。
真理の道、「三聖吸酸」の「酢」から外れないように観音様があらゆる姿に変身して目の前に現れている、というのがこの世界の実装なのかもしれませんね。
しかも、菩薩は人を救うことが自分の幸せに繋がりますから、世の中はなんて素晴らしいんでしょうね。
蛇足ですが、「法楽和歌」という神仏に奉納するための和歌があります。
足利尊氏の弟である直義は観音経の一節(或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没)を、「波浪不能没」と題して和歌にしています。
さはりなき 心におこす ちかひにや
波に入りても おぼれざるらん
観音様の力を疑いなく念ずれば、波に入っても溺れないという意味です。
ここからがホントの蛇足で(笑)、法楽狂歌というのをつくってみました。
狂歌は社会風刺や皮肉を盛り込んだ短歌のパロディーで江戸時代に流行ったものです。法楽狂歌というものは存在しないんですが、法楽和歌を狂歌のようにパロディーにしたから法楽狂歌です(笑)。
「波浪不能没」をパロディーにした法楽狂歌。
さはりなき 海のとほくに おこしやす
波に入らねば おぼれざるらん
解説するのも野暮ですが、おこしやすは京都弁ということで、海から遠い京都に来れば、そもそも波で溺れることもないよっていう皮肉です。
冗談はこのくらいにしておいて、今回はこれにて終わりです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
オマケ。
白浜の千畳敷で見た夕焼けが綺麗だったので、今回のテーマの「観」の字を当ててみました。
観音様の力を念じてるから、波打ち際ギリギリまで行っても溺れません(笑)