目次
1.もったいない
「勿体ない」について考えてみると、何をもって勿体ないとするかで、勿体ないのか勿体なくないのかは変わってきます。
例えば、もう使わなくなったモノを捨てる場合。
捨てるのは勿体ない、と考えていつまでも捨てられずに部屋が片付かないとしたら、果たして捨てることは本当に勿体ないのでしょうか?
それなら、必要とする人に売るなりあげるなりした方が当然勿体なくないですよね。
狭い範囲で考えると、捨てることが勿体ないのかもしれないけれど、広い範囲で考えると見え方が変わってきます。
別の例で、食べ放題や飲み放題の飲食店へ行ったとしましょう。勿体ないから元を取ろうと必死でガツガツ飲み食いして、食べ過ぎで気持ち悪くなったり太ったりして後悔する。
金銭的な損得勘定だけで考えれば、元を取らないと勿体無いかもしれませんが、健康面を踏まえるとほどほどにした方が良くて、食べ過ぎた方が勿体ない結果になってしまいます。
一時の感情で考えるのか、もっと長い時間軸で考えるかの違いで、どちらが勿体ないかが変わります。
では、誰かから興味のない誘いを受けた時(もちろん誰から受けたのか、またその時の状況にもよりますが)、誘いに乗るのは時間の無駄だから勿体ないとするのか、未知の可能性を失ってしまうかもしれないから誘いに乗らないことを勿体ないとするのか。
結果的に時間の無駄になってしまうこともあるでしょうが、どっちみち人生なんて時間の無駄遣いの連続ですから(笑)、ぼくはどんな誘いでも一度は乗ってみることにしていて、誘いに乗らないことが勿体ないと思っています。わりとなんでも楽しめるので、その選択が自分にとっては合っています。人によりけりかもしれませんが。
いずれにせよ、「勿体ない」は短期的に狭い範囲で捉えるより、長期的に広い範囲で考える方が良い循環を生むのではないでしょうか。
いつもの通り、「もったいない」の意味や語源を調べてみました。
最近はgoogleで検索をすると、最初にAIの回答が出てくるようになりました。
鵜呑みにすると危ういですね。。嘘か本当か調べるのが逆に大変。
「勿体ない」は仏教由来だという記事が多数ヒットするのですが、その出典について明記されているものは見当たらず、自分の持っている語源に関する本の中でも、仏教由来という内容は見当たりませんでした。
仏教由来かどうかはソースも醤油も見当たりませんが、似たような考えは仏教にもあります。
山川草木悉有仏性(あらゆるものに仏性がある)という言葉なんかはそれに近いんじゃないでしょうか。
2.Reの文化
江戸時代は理想的な循環型社会であったと言われています。
SDGsという言葉に踊らされて、なんのこっちゃ分からない政策をするより、日本の江戸時代を手本として現代版にアレンジすれば目指すべき良い雛型になれると思っています。
江戸時代の暮らしについては、『守貞漫稿』という本に色々書かれています。
庶民は基本的には古着が当たり前。鍋を作る技術がなくても修理する技術を持つ鋳掛屋(いかけや)があり、古傘買いによってボロ傘は買い取られ修理されました。かまどで出た灰も紙屑も無駄にはしません。すべて再利用されていました。蝋燭の垂れた蝋を集められたりもしました。
そもそも物が少なかったり技術が未熟だったりしたせいだと言えばそれまでですが、生ゴミや木くず、布切れ、し尿などは全て肥料になりますし、自然に返すと生成分解されるものばかり。実際のところゴミはなかったようなものです。
そんな江戸時代に流行っていたものの一つに「狂歌」があります。
火付け役となったのは大田南畝。もうすぐ大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」にも登場しますね。好きな人物なのでとても楽しみにしています。
狂歌師として有名ですが、幕府の官僚でもあるエリートでした。
そんな大田南畝が最初に出版したのが『寝惚(ねぼけ)先生文集』。
寝惚先生とは大田南畝のことで、蜀山人や四方赤良といった号でも知られています。
その著者には、「著」、「輯(しゅう)」、「校」と3名の名が連ねられているのですが、その名前からいきなり面白い。
毛唐(けたう) 陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく) 著
阿房(あほう) 安本丹親玉(あんぽんたんおやだま) 輯
蒙麓(もうろく) 滕偏木安傑(とうへんぼくあんけつ) 校
世の中をなめくさったようなこの感じがたまりません(笑)。
また、その序を書いているのが南畝が尊敬する平賀源内。師弟関係ではなかったようですが、平賀源内に評価されたことで出版に至ったと言われています。
その序を少し紹介します。全部載せてもそんなに量はないのですが、前半と後半が特に面白いので、間は省略しました。
解説は少し記載しているので、読んで楽しんでいただけると思います。(太字が本文で、後ろは注釈)
今時の学者は中国人になりたがっていて、机上の空論で鼻を高くしているだけなのに食えないことはないという皮肉。論語四匁は三百文、世説六百は世説新語が六百文の受講料を取っているのは、安直な遊女屋や娼婦と同じようなもの。これを「ヘッピリ儒」だと小馬鹿にしています。
これが老子のパロディから始まっていて、学がないとできないジョークです。面白いですね。
大田南畝のことを、世間の表も裏もよく理解していて、先ほど馬鹿にした学者臭い学者とはかけ離れている。
そして、一緒に狂歌や風刺的な文学を作れることを嬉しく思っていると、論語のパロディで表現しています。
最後、似たもの同士が寄るから私もここに共感している。同じ興味を持つ読者にこれで野暮だと思われるなら仕方がないと締めくくっています。
もはやこれ以上の「序」はないですね。
実際は全て漢文で書かれていますが書き下し文で紹介しています。
ちなみに「賜や、始めて与に詩を言うべきのみ」の論語は、孔子と弟子の子貢との次のようなやりとりです。
「往を告げて来を知る」は、一を聞いて十を知るということ。
このような「序」から始まる『寝惚先生文集』、最初に掲載されているのは「風雅体」という作品。
詩経の構成は、國風(各地の民謡)と小雅・大雅(宮廷歌謡)、頌(祭祀の歌)に区分されていて、そのうち風と雅を合わせて風雅と言い、一句四言の短い形を取っています。それに合わせた漢詩なので「風雅体」というタイトル。
内容は、長唄にある「花の宴」を漢詩にしたもの。
長唄は江戸で発展した三味線音楽で、「花の宴」は遊女をテーマにした曲です。それを格調高い漢詩に置き換えるという行為がかなり変態です(笑)。進撃の巨人の奇行種ですね。
このような狂詩がつまっているのが『寝惚先生文集』。短歌のパロディを狂歌、漢詩なら狂詩、文章なら狂文。パロディを「狂」の一文字を当てたのが誰なのか知りませんが、言い得て妙だこと。
別で『四方のあか』という狂文集にも遊女をテーマにしたものがあります。現代の大河ドラマでも取り上げられるくらいですから、江戸の社会と吉原は切っても切れないものだったのでしょう。
ことわざのパロディです。
嘘と誠、仏と凡夫、相異なる2つの事象をアウフヘーベンさせて、その答えが吉原(笑)。
色即是空、煩悩即菩提、絶対矛盾的自己同一、、、言ってることはこれらと同じ次元。
真面目に小難しい仏教経典や哲学も、このようなパロディにすればもっと万人に理解が行き届きそうな気がしますが、その格調を守らんとする高尚な議論を繰り広げる鼻の高い学者臭き学者さんたちがそれを許さないのでしょうか。
そして、蔦屋から刊行されたのが『吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)』。
蔦屋重三郎が、狂歌師と浮世絵師を組み合わせた「狂歌絵本」を出版します。
そこには当時の主要な狂歌師が名を連ねました。
大田南畝は「四方赤良(よものあから)」の号で掲載されています。
だいぶパロディに引っ張られてしまい失礼しました。江戸のリサイクル文化、それが本題だったのですが、脱線は本線ということで。
現代、リサイクルの大切さを打ち出してノーベル平和賞を受賞したケニア出身の環境活動家ワンガリ・マータイ氏。
彼女の母より上の世代の人たちは、野生動物と上手に暮らす知恵を持っていたと言います。
(『ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉ワンガリ・マータイ: 「MOTTAINAI」で地球を救おう』より)
キクユ語ではヒョウのことを「ンガリ」と言うそうで、名前のワンガリは「ヒョウの」という意味だそうです。動物をはじめ自然界と共存し生活していた環境で育った彼女は、自然破壊に対して黙っていられなかったのだと思います。
ゼロ・ウェイスト運動なんてのもありますが、英語でうまいことRe〜とまとめたものですね。
Reなんちゃらは、地球環境にとってはもちろん大切ですが、「パロディ=狂」も、言わば歴史的な作品や書物の再利用。
あまり知られていなかったものをパロディ化することによって多くの人に親しまれる例は、音楽でカバーした歌手の方が有名になることと似ている気がします。作者からすればどちらが嬉しいかはその人次第かもしれませんが、せっかく作られたんだから日の目を見られて方が良いとぼくは思います。
ただ、いくらパロディで皮肉をこめたとしても、原作者へのリスペクトは最も大事なこと。江戸の狂歌師も、愛し好んで学んだことに対しての尊敬と感謝があるからこそ、ユーモアによってその魅力をさらに引き出していたのではないでしょうか。
「Re」と「狂」は本質的に大切なことは同じものなのかもしれません。
3.あますことなく
豚は食べるにあたって捨てるところがないと言います。
だから一部分だけ食べて捨てるのは「勿体ない」。
逆にあますことなく食べれば「勿体ある」ということになります。
食べ物に限らず、物事の一部ではなく全体を見る、あまねく照らすということが「勿体ない」状態から脱するためには必要です。
物質的なことに限らず、心的なもの、喜怒哀楽の感情にしても、喜びや楽しみばかりにフォーカスしていては、豚を食べ残しているのと同じ。怒りや哀しみも、必要だからこそある。
豚だけ捨てるところがないのではなくて、世の中にある全てのものは捨てるところがないと考えています。
良い悪いにしても、悪があるから善が生きてくるわけです。
長所や短所も、短所は捨ててしまえば良いというわけではなく、短所にもきっと活路があって、ひっくるめて才能なのではないでしょうか。
また、どんな機会であろうと味わってみれば良い。そこに無駄もなにも関係なくて、味わうという純粋な行為をどう捉えるかの問題。
欲望があっていけないわけじゃない。程よい塩梅を見極めた方が良いというだけ。
どんな人間関係だろうと、嫌な人であろうと、あまねく照らして見れば、新たな発見があるはず。
豚のように味わい尽くしましょう(笑)。
何が良いか悪いかとか成功か失敗かとかではなくて、滞りなく流れていることが大切。
その範囲にだけで留まってしまうこと、その時間で止まってしまっていること、これが問題であって、その対象が何であるかはなんでも良いし、どっちでも良い。
体も血液の循環が止まると生きられません。心もそう。
そして、人生における仕事や趣味、生活も同じ。仕事がうまくいかない原因がプライベートな日常にあることは珍しくないし、挙げた3つ以外の別の区分けでもなんでも良いけど、要は自分の人生を構成している要素を隅々まで見渡して、滞っているところがないか見つめ直していくと、意外なところに詰まりの原因があったりするものです。
このような循環は自然の摂理であるから、地球も流れて循環しているのが理想であって、滞っていたり一方通行だと破滅しかねない。破滅も一つの流れが行き着く先だとすれば、それも一つの道なのかもしれませんが、やっぱり多くの人はそうは願いませんよね。
兵法書『韓非子』にある「物は宜しき所有り、材は施す所有り」という言葉の通り、滞りなく流れるためには適材適所が肝心で、自分にとって不要なものは物であれ才能であれ、他への施しに変えるのが吉。
必要なものが適切なところにある、それだけで世の中は平和になりそうです。
必要以上に欲するから、争いや奪い合い、環境破壊に発展してしまう。そう思うと、お腹いっぱいになったらそれ以上は食べない動物の方が人間よりよっぽど賢いですね。
必要以上に欲するのではなくて、今ある物でどれだけ遊べるか。
最近、富岡鉄斎邸跡が公開されていて見学へ行ってきたのですが、太田南畝が文学で遊び尽くした人だとすれば、鉄斎は絵で遊び尽くした人。
このような人たちにとって、必要以上のことを欲したり、人を羨んだり、勝とうとしたりするような暇なんてなかったんじゃないでしょうか。
そして富岡鉄斎も学者臭き学者より、よっぽど優れていたに違いありません。
作品の一つ「聖者舟遊図」は、違う宗教教祖を同じ船に乗せて、鉄斎から見れば本質はどれも同じようなものと表現していたように感じられます。
南畝も鉄斎も、まさに「悠々自適」の言葉が似合う人たち。
芸術活動に限らなくても、このように何かに打ち込んで生きられたら幸せですよね。
孔子が言う「貧乏を忘れて楽しめる人、裕福になろうと礼儀を愛し好む人」でもあるのでしょう。
貧乏とか裕福の関係なしに、目の前にあるものをくまなく見渡して残さないように使い切る、そこには勿体ない精神が伺えます。
辛いことや悲しいことは誰にだってあります。だからこそドラマが生まれます。
わざわざ苦難に突っ込んでいくようなことはしなくても、生きていれば向こうから勝手にやってくるので、それをしっかり味わえるかどうか。
完全無欠の幸せ「極楽浄土」って退屈そうなので、2度3度輪廻を味わってから浄土へ行きたいという井上円了の考えにも納得です。そのことを「此土寂光(しどじゃっこう)の妙趣」と表現していますが、機会があればなんでも味わっていかないと勿体ない。
最悪、どうにもならなくなったら阿弥陀仏がきっと救ってくれるはず。その後ろには弥勒菩薩も控えてるから、まあ大丈夫でしょう。何が?笑
取り留めもなくなってきたところで、今回はこのへんで終わりにするとします。
あんまりじっくり記事を書く時間が確保できず、手抜きで資料を一応まとめただけになりますがご容赦ください。
最後に、「勿体ない音頭」で。反面教師の歌?笑