CRAFT GATE

和の情 テーマ「繋」

 目次

    1. 諸法無我
    2. 自分とは
    3. 粘菌とパラドー人
    4. つながりに感謝

 

 

1.諸法無我

畑を借りて野菜を作るようになって5年目。

今年の夏は絵のように野菜を育てたが、スイカ、カボチャ、エダマメ、ズッキーニ、トウモロコシは諸々のトラブルでうまくいかなかった。

 

いつか訪れるかもしれない食糧危機に備えて、ある程度は自分で食べ物を作れたら…という思いと、自給自足に憧れてはじめた家庭菜園を通じて分かったことは、「完全自給自足は無理」だということでした。

農作業をやり始めたことで「憧れ」に諦めがついたからある意味良かったのだけれど、そもそもたった家族3人が充分に食べていく分の野菜を賄うにしても量が足りない。実際に畑で畝として利用している面積は50㎡(およそ15坪)ほどで、家族分の野菜をすべて賄うには場所も労力も3〜4倍は必要だと思う。肥料は畑の耕さず使っていない場所に生えている雑草と、家で出た生ゴミのみで、基本的には外からの肥料に頼らず循環させることを目指しているため、一般的に用いられるような肥料を使えば収量は増えそうだが、できる限りはこの範囲内で完結させたい。もちろん、自己流で効率が良くないので、やり方次第ではこの限りではないかもしれない。

野菜だけでもこのざまで、他に米や肉や魚、調味料なども自給するとなると、もっと労力をかけねばならず現実出来ではない。

農作業をやってみて、片手間では自給自足はかなり厳しいことに気付かされ、他人に頼らないと生きてはいけないことを思い知って、改めて食糧に困ることなく生きられていることに感謝がこみあげてきた。その分、社会にとって何かしら役立つことを仕事にして働き、生活に必要なものを交換してもらわないと、とても一人では生きていけない。

そもそも考えてみれば、すべてを自給するとなると道具も自分で作らねばならない。農作業に使う道具にしても、一から自作すれば立派なものは出来ないし、農作業も捗らないでしょう。

朝起きて夜寝るまで、身近なものを見渡してみると、何一つとして自己完結などできないことがよくわかります。

電気、ガス、水道、布団やベッド、トイレに洗面所、歯ブラシにタオル、服、調理器具、電化製品、テーブル、椅子、食器、パソコン、文房具、カバン、食材、調味料……すべて自分一人では作れません。

完全自給自足をしようと思えば、せいぜいほったて小屋を作って、なんとか火を起こし、野菜と穀物を作り、着るものは適当な葉っぱなどで、藁か何かを敷き詰めたような寝床。そんな原始的な生活しかできないと思います。いや、それすらもままならないかもしれない。

今のような生活ができるのは、先人たちの努力のおかげであって、今も生活に関わる製品を供給するために働いてくれている人たちがいるおかげさま。

家庭菜園を通じて、当たり前に生活できることに、もっと謙虚になって感謝せねばならないと身に沁みました。

 

そして、もう一つ思ったことがあります。

天然由来のものだけにこだわる主義があるけれど、スーパーで売っているものを買って食べれば微量なりとも人体に有害な成分も摂取することになるし、いくら自分が有機栽培をして農薬や化学肥料を使わずに作物を育てたとしても、近所で農薬や化学肥料を振り撒かれたら影響を受けるし、大気汚染によって酸性雨が降れば避けることはできないということ。僕も家庭で出た生ゴミを肥料として使っている時点で、畑に有害成分は入ってしまう。

すべてが関わり合って相互に作用を及ぼしている限り、一人だけ、もしくは自分と家族や友人たちだけ、有害物質に毒された世界から抜け出して完全に別の生活を送ることなんて不可能なのです。

自分だけ良くなろうとすることは不可能で、向かいたい方向があるのであれば、個ではなく全体が向かっていかねばならないということですね。

 

最近、沼にハマったカメラでも気付かされた。

写真をRAWデータという、言わばデジタルの生データで撮影したものをレタッチして現像し、JPGなどの写真データが出来上がります。レタッチというのは、明るさや色のバランスなどを調整するのもので、例えば「ハイライト」は写真のなかでも特に明るい部分の調整ができるもの。明るい部分だけもっと明るくしたり暗くしたりできるのですが、特定箇所だけ変わっているようでいて、できるだけ自然な状態を崩さないように、実は他の部分にも影響があって、全体の色味が変化します。デジタル写真とはいえ、不自然な切れ目を防ぐための仕組みです。

途切れ途切れのドットを集めたデジタル写真でさえ、見た目が自然に映るようにするためには、一箇所を変更するとその他の領域も変化せざるを得ない。まさに一枚の写真の中で全てが繋がっていというわけです。

 

すべては関わり合い、繋がっていて切っても切れない。これが私たちが生きる世界の真相であり、「諸法無我」と言います。何一つとして、個として独立して存在することはできないのです。

ということは、自分の言動、行動、思惑もすべて、ほんの小さなことであろうと世界に影響を与えてしまうことになる。ゆえに、自身の態度には責任を持ち、「生きている」のではなく「生かされている」ことに感謝する必要があるのではないでしょうか。

 

2.自分とは

すべては繋がっているのが世界の真理である。では、いったい自分とは何なのか?

頭(脳)が自分?
であれば、脳死してそこにいる自分は自分ではないのか?

心臓が自分?
であれば、心臓移植をしたら自分ではないのか?

体が自分?
であれば、4年経って体の細胞がすべて新しくなったときに自分ではないのか?

精神が自分?
であれば、考えが変わったり志を誰かから受け継いだりしたら自分ではないのか?

生年月日、姓名が自分?
であれば、同姓同名で同じ誕生日の人とは同一なのか?

 

探せば探すほど、「自分」というものは遠ざかっていく。突き詰めていけば自分という実態はない。これが「無我」。

すべては繋がっているからこそ、自分というものは本来ないのである。だから、やはり「諸法無我」ということになります。

「自分」と思っているものは本来は存在していない、実際そこにあるのは「自分(仮)」なのです。その「(仮)」を忘れてしまっているから、人間はやっかいになってしまうらしい。

 

例を出して少し考えてみましょう。

他人が何か成功した時に、一緒になって喜んでいる人もいれば、それを羨ましく思っている人もいます。妬む人も少なくない。

いったいなぜ、一つの同じ現象に対して羨む人と妬む人に分かれるのか?

その原因は、「自分(仮)」の”範囲の差”によって生まれるのではないか。

「自分(仮)」として捉えている範囲は人によって違います。皮膚と空気の境界線の内側を「自分(仮)」だと認識している人がほとんどでしょうが、それは個体としての物質的な境界線を認識しているだけに過ぎません。イメージしやすいように言い換えるなら「自分ごと」にしている範囲が人それぞれ違うということです。

「成功して喜んでいる他人」が”自分ごとの範疇”に入っている人は一緒に喜べるし、範疇に入っていなければ別の感情を抱くことになる。ただ、他人の成功を妬む人であっても、我が子の成功は喜べるかもしれないので、その範疇は単純な大小で測れる円形ではなくて、実際はいびつな形をしていると思われます。

自分ごとの領域が大きな人のことを「器の大きな人」と表現するのでしょう。

 

そんな自分ごとの範疇で思い出すエピソードがあります。

以前バスに乗った時、渋滞で到着が遅れたことがありました。

終点に着いてバスの運転手さんは
「遅れてしまい申し訳ございませんでした」
と謝罪を込めた挨拶をしたのです。

渋滞して遅れることは不可抗力ですから、決して運転手の責任ではないはず(よっぽどヘマをしない限り)。それなのに、自分の責任であると考え、乗客に謝ったのです。

この運転手さんの「自分(仮)」の領域は、少なくとも皮膚と空気の境ではなくて、バス全体にまで広がっているのだと感じました。

 

つい最近のエピソードをもう一つ。

早朝になんとなく小倉山へ行った時、87歳の元気溌剌なおじいさんに出会いました。17年間、毎日自転車で広沢から通い、山頂へ登っては1時間清掃をして帰るのだそう。もちろんボランティアで。

その方に誘われて、登る気はなかったのに、なんとなく心が惹かれて途中まで一緒に登りながら話をしました。

途中、大きな岩のある場所に出た時、
「今はないが、前はこの岩にしめ縄がしてあった。ここには山の神様がいはるんやで」
と言って、岩に手を合わせて頭を下げたので、僕も一緒に手を合わて礼をしました。

そして、カメラを持っていた僕が朝日の写真を撮りに来たのだと思ったようで、見晴らしの良いところまで案内してくれたのです。

「この時間、毎日いるからまた来てな」
と声をかけてもらって別れました。

当然、山は私有地でもなければ、おじいさんの家でもない。しかし、17年間毎日掃除をしに来ている場所は、アウェイではなく完全にホーム。もはや、おじいさんが山の守り神にさえ見えてくる(笑)。

毎日掃除をして大切にしている小倉山が、おじいさんにとっての「自分(仮)」の領域なのでしょう。

また会いたいと思える方であり、こういった人とのご縁、繋がりには心温まる成分がたっぷりと詰まっている。オンラインでできる手軽なコミュニケーションも便利ではあるが、このように偶然出会った人と繋がり、何気ない話をすることが幸せであると実感したのです。

 

ところで、「我(が)」または「我欲」をなくすことは、道徳的にも宗教的にも良しとされています。しかし、人間として生きている限り「我(が)」をなくすことなんてできないでしょう。

我欲を抑えることや無くそうとするのには無理がある。そうではなくて、もっともっとその範囲を広げるべきなのです。

「自分が〇〇したい」という「我(が)」を抑えようとするのではなく、反対にもっと大きく広げて、家族が、仲間が、地域が、国が、社会が、世界が、地球が、宇宙が……と膨らませていく。

「自分が」という「我(が)」を小我と言い、「世界が」とか「宇宙が」のように大きな「我(が)」を大我と言う。

個ではない本来の自分がどこかにあるとするなら、全体である大我こそが本来の自分でしょう。

 

人は往々にして「自分(仮)」の範囲をどうにかしようとするのではなく、自分が決めた仮初めの小さな器に何でもかんでも詰め込んで自分のものにしたがる。

大地に線を引いて他者を排除したり服従させたりして「自分のもの」にし、自然界にあるものを先に見つけた人が「自分のもの」にする。そして差が生まれていく。

本来は、「自分」なんてなければ「自分のもの」だってない。つい勘違いして自分のものだと思い込んでしまうのです。

 

「自分」も「自分のもの」もないという話をしておきながら恐縮ですが、僕は自分の持ち物よりも、人から借りた物の方を大切に扱います。かといって自分の持ち物を粗末にするわけではありませんが、特に人から借りた物は壊してはいけないと、いつも以上に気を使います。

皆さんも、人から借りたものは大事に扱いませんか?

地球環境に話を置き換えれば、自然や資源を我が物だと勘違いしてしまっているせいで大事にできず、環境破壊に歯止めがきかなくなってしまう。

自分の身体で言えば、健康に気を使わなかったり、体を大事にできなかったりするのは、やはり「自分のもの」だと思っているからではないでしょうか。

自分のものだと思っている肉体も、実際は自然界からの借り物であって、死ぬ時は大地に返さなければならない。自分なんてないし、「自分(仮)のもの」も本当はない。すべては借り物の「(仮)」なのです。

そんなふうに捉えられたら、「自分(仮)のこと」も「自分(仮)のもの」も、もっと大切に扱えるのではないかと思います。

 

いのちを私物化してはいけないと言ったのは、「仏教伝道文化賞」を受賞した高史明(コ・サミョン)で、著書『いのちは自分のものではない』の中で次のように述べています。

いわれのない「いのち」の私物化が、いのちの砂漠化を滔々と圧し進めているのです。

戦争や環境破壊を止められない現代社会に対して語っている。現代人に限らず、古代から争いは絶えない人類への警鐘でしょうか。

人は「自分が生きている」と思っていますが、「いのち」が自分を通して生きているのです。 

 

3.粘菌とパラドー人

「繋がり」「自分(仮)」というキーワードで、個人的に僕が連想してしまうのは「粘菌」の存在。

その粘菌と、アーサー・C・クラークのSF小説に登場する「パラドー人」という宇宙人が、どちらも似たような性質を持っている。これについては過去の記事を参照いただきたい。

粘菌とパラドー人

自然界の中間管理職とも言える「粘菌」はバクテリアを捕食し、枯れ木や枯れ葉が朽ちるスピードを調整しています。さらに動物と植物の両方の性質を持っており、まさしく異なる世界を繋げている存在だと言えます。

 

これは最近採取した粘菌や、集めている標本、飼育している変形体のアメーバの写真。アメーバは今は菌核というカチコチの状態(画像右下)にして保管しています。こうすると、カップラーメンのように何年も状態を保管できる。それを水分のある場所へ置いてやると、2〜3日ほどでアメーバが復活します。

 

粘菌は、様々な記憶や経験を世代を超えて共有しています。例えば、おじいちゃんが嫌いだった食べ物が、孫も嫌いであったりするのです。

また、鼻がなくても匂いを感じ、舌がないのに味を感じているように思えます。五感の「元」のようなものが備わっているのではないでしょうか。

『般若心経』にも出てくる〜眼耳鼻舌身意〜は六根(ろっこん)と言い、人間の感覚機関を表しています。その元となるのが六境(ろっきょう)で、それぞれ色、声、香、味、触、法の六つ。粘菌は、まさにこの六境が剥き出しの生物なのではないかと、ぼくは考えています。

 

アーサー・C・クラークが粘菌を知ってか知らずか、SF小説の宇宙人であるパラドー人は、同じような性質を持っています。

 

粘菌研究者の第一人者でもある南方熊楠はイギリスの大英博物館で勤めていたことがあったし、互いに膨大な知識を持っていたなど、通じるところが多いのかもしれない。

いずれにせよ、アーサー・C・クラークの鋭い洞察力を踏まえると、小説の次の一文が人類の未来を予知しているようにさえ感じられないでしょうか。

人類は、時には道を踏み外しながらも成長へと向かっている。いのちがその方向へ流れているからでしょう。それは即ち、遅かれ早かれ小我から大我へと昇華していくことは必定で、阿弥陀仏が全人類救済の本願を立てているのと同じことであるように思えます。

パラドー人や粘菌の活動は、もしかすると手本とすべき「いのち」の手本なのかもしれませんね。

 

4.つながりに感謝

密教で重要視されている両界曼荼羅は、世の真理と悟りへの実践法を図式化したもの。簡単に紹介しましょう。

天台宗や真言宗など密教の寺院で本尊に向かって左に置かれるのが「金剛界曼荼羅」、右側が「胎蔵(界)曼荼羅」。数多くの神や仏が描かれており、その荘厳な雰囲気が美術品としても高く評価されているが、その真価を理解し実践できる人は本職のお坊さんでもあまりいないのではなかろうか。僕も詳しくはわかりませんが……。

「金剛界曼荼羅」(左)は「会(え)」と呼ばれる9つのブロックに分かれていて、それぞれに大日如来の姿が描かれています(一箇所を除く)。悟りの段階が示されており、右下から反時計回りに進んで最後に中心へ到達します。大日如来の修行プロセスといったところでしょうか。

中心へ到達し悟りを得たなら、今度は逆周りに菩薩行が始まる。禅でも、自分が悟りを得たら悟後の修行が始まるように、「悟り」というのは通過点、いやスタート地点なのです。結婚がゴールではなく、結婚してからが本当のスタートです(笑)。

「胎蔵(界)曼荼羅」(右)は、12のブロック(こちらは「院」と呼ばれる)に分かれていて、外側には異教の神々が描かれています。金剛界が時間的要素を持っているのに対して、こちらは空間的要素を表しています。

 

もっと雑な僕の解釈になりますが、これらの曼荼羅はドラゴンボールで例えるとわかりやすい(笑)。

大日如来が主人公の孫悟空。金剛界は修行プロセスなので、9つのブロック全てに悟空は登場し、幼少期(金剛界曼荼羅:右下)からスタートしてだんだんと成長していく。時には主人公が出演しないシーンもある(金剛界曼荼羅:右上)。そして最終的に魔人ブウを倒すほどの力を得る(金剛界曼荼羅:中心)。で、今度は強いヤツを育てるために修行をつけてやる。とにかく主人公悟空の成長段階を表しているのが金剛界です。

胎蔵界については、ドラゴンボールキャラ全員集合の写真みたいなもの。集合写真だから金剛界のように主人公は何人も登場しない。これこそドラゴンボールの世界だ!といった渾身の一枚が胎蔵界の曼荼羅。

密教系の寺院へ行く機会があれば、そう思って曼荼羅を見てほしい。きっと何か少し分かったような気になるはず(笑)。

 

ちなみに、金剛界曼荼羅について真面目にもう少し掘り下げると、中心のブロックは「成身会(じょうじんね)」と言い、大日如来を中心に5体の仏が描かれており、それらが5つの智慧を表しています。

その智慧は次の通り。解説はものすごーくザックリなのであしからず。

①成所作智:なすべきことをなす

②妙観察智:ものごとを客観的に捉える

③平等性智:ものごとを平等に捉える

④大円鏡智:すべてありのままを捉える

⑤法界体性智:すべてを結びつける

やるべきことをやって、客観的視点を持って、偏らず平等に見て、そうして全体をありのまま捉えて、すべてを繋いでいく。小我から大我へと至る道に他ならず、「いのち」を私物化しないことにも繋がります。

 

では、「①成所作智」のなすべきこととは何だろうか?

それは悩み事の解決です。悩み事が解決された時、安堵と共に幸せが訪れます。悩み事は幸せを得るための原材料なのです。また、困難であるほど喜びも大きくなることでしょう。

結局、何のひねりもない着地になってしまいましたが、なすべきこととしてもっと重要なことがあります。

それは、悩み事を独り占めしないこと。

悩み事は幸せの原料であり、人類が共有すべき財産であると捉えるべきなのです。

考えてみてください。何の悩みもなく一切困ることなく生きていて、そこに何か残るでしょうか。ドラマも何も起こりません。

悩みのない状態には誰もが憧れますが、何もなければ退屈が悩みになってしまうもの。人は常に「悩み」を探し続けています。人の悩みを解決するために企業や行政のサービスや商品があり、政治やあらゆる社会活動があり、その根源は「悩みの解決」にあります。

そして誰もが「悩み」を求めています。

悩みを「自分(仮)」の内側に見出すのか、外側に見出すかだけの違いです。その内外に関わらず、悩みは幸せを味わうための主原料であって、独り占めしてはいけない、私物化の許されぬ財産。

私たちがなすべきこととして最も大切なことは、悩み事の共有なのです。

 

悩み事を共有するためには信頼のおける相手が必要ですね。この世に生きている時点で、私たちは少なからず社会と「関わり」を持っています。そこへ、もう一歩踏み込んだ関わり、「繋がり」をつくることが大切になります。

繋がるということは、「自分(仮)」の領域がその相手にまで及んだ状態で、相手のことを自分ごとと考えられる関係だと思えば良いでしょう。人類全員と繋がることはできませんが、縁あって出会った人とただ関わるだけではなくて、たとえ一時であろうとその間は繋がっていられるような「自分(仮)」でありたいもの。

日本語の「幸せ」は、昔は「仕合わせ」と表記していて、もとは「為合わせ」でした。

為すべきことを合わせる、悩みを共有して解決していくことは幸せに繋がっていくと思います。

 

まずは身近な繋がりをしっかりと意識すること。そのために「繋がり感謝の曼荼羅」を作ったので、ぜひ活用いただきたい。

ちなみに僕はいつも仏壇に線香を上げる時、三本の線香にそれぞれ以下三つの感謝をこめて火を灯すことにしています。

・父母、祖父母、ご先祖様への縦(血)の繋がりに感謝
・天地自然や人智を超えた神仏の働きに対するご縁に感謝
・妻や家族、親戚、友人や仕事仲間など今ある繋がりに感謝

改めて考えてみれば、金剛界と胎蔵界のような感じがしたので、書き入れて曼荼羅にして、目で見たり声に出したりすることで、しっかりと繋がって感謝の気持ちが自然と湧いてくるのではないかと思い図にしてみました。

書き方例を省いたA4サイズのPDFはこちらからどうぞ

 

繋がりを実感して感謝を忘れず、悩みの種は私物化せずに貴重な財産として共有し、悩みを解決するために行動して「為合わせ」になる。

一人一人がそんなふうに生きていけば、いずれはこの世が完成された曼荼羅の世界になるのかもしれません。

 

最後に、最近撮影した天の川と、『星の王子さま』からの引用で締めくくりたいと思います。