CRAFT GATE

和の情 テーマ「遊」

 目次

    1. 西と東の法則
    2. 変性意識
    3. 神との邂逅

 

 

1.西と東の法則

ファミコンとかスーパーファミコンとかの、平面的なドット絵のゲームってしたことありますか?

自分の中で代表的なのは「ドラクエ」なんですが、やったことがない人もイメージしてみてください。

ゲームの世界にはマップがあります。上が北、左が西で、右が東、下が南の四角い地図。

 

ちなみに小さい頃、なぜか右が西、左が東であると、2文字ペア(ミギ・ニシ)、3文字ペア(ヒダリ・ヒガシ)で覚えやすいなと勘違いしてそれで覚えてしまいました(笑)

そのせいで、今でも「右」と聞くとパッと出てくるのは「西」。でもそれは間違いなので、その反対だから「東」と頭で変換しないといけないため、人よりも西と東の判断がワンテンポ遅れてしまいます。困ったことに今だにパッと「西」「東」が出てこなくて嫌になります。

 

ゲームの話に戻して、例えば船で移動してマップの西(左)の端に行くとどうなるか分かりますか?

知っている人は当たり前のことですが、東(右)の端から出てきます。東の端へ行くと西の端から、北の端へ行くと南の端から現れます。

ゲームの世界のことなので、何も不思議なことではないんですが、大人になってからこれは一つの真理であると閃きました。

これはゲームのマップだけでなく、様々な事象に置き換えられるのです。

 

例えば、論理派と感覚派。論理的な人が、論理を突き詰めていくと、ある瞬間に突然感覚の極みに出てくる。逆もしかりで感覚を極めていくと論理から出てきます。

論理的な科学者であった人が、ある瞬間から急にオカルトなことを言い出したり宗教者になったりする例は結構あります。

自分の例を出すと、何も考えずに感覚だけに頼って話をしていると、それが考えて喋るよりもかえって理路整然としていることがあります。これも反対側から出てきたような感覚になります。

他にも、苦手であったことが得意に変わったり、相反する二つの事柄が、気づくと入れ替わっていたことって実は珍しくないことだと思います。

 

対極の話とは少し違いますが、ソクラテスは「空腹は最上のソース」だと言いました。

どんなに美味しい料理であっても、お腹いっぱいであれば美味しくない。空腹こそ、最も美味しく食べる方法だということです。

同じ理屈で、幸福を得るためには困難や苦難が最上のソースになると言えそうです。西と東の法則とはちょっと意味が違いますが、何かを得るためにはその対極を突き詰めることは重要なのではないでしょうか。

また次のような有名な文句があり、以上のことは教えとしても語られています。

If you want to enjoy eating,Stay hungry.
If you want to sleep comfortably,Work hard.
If you want to know the warmth of people,Seek solitude.

食べる喜びを得たければ、腹を空かしなさい。
心地よく眠りたければ、よく働きなさい。
人の温もりを感じたければ、孤独を求めなさい。

はい、失礼しました。

 

また極端に考えると、昔から人は死を恐れ、必死で逃れようとしてきましたが、もしかすると「死」というのはものすごい快感なんじゃないかと考えてしまいます。死は究極のエクスタシーかもしれません。

それは実際に味わってみないと分かりませんが、いつかくる一度きりのチャンスを待っておくことにしましょう。

とにかく苦境は楽しむための極上のソース。

逆境は人生を彩ってくれる花なのです。

 

ということは、何か達成したい目標があるなら遠回りすることが実は良かったりするかもしれません。「急がば回れ」「急いては事を仕損じる」と言われますから。

だから、目的地へ早く到達したければ寄り道するのが良いってことですね。

人生、道草を食え!

つまり「遊べ」ってことですね。←無理矢理(笑)

 

2.変性意識

変性意識状態とは、覚醒時における通常とは異なった意識状態のこと。通常の意識状態とは、脳波でいえばベータ波の帯域にある状態です。図で見てもらった方が分かりやすいですね。

私たちの脳波は通常、だいたい14〜30Hzの間(ベータ波)にあります(区切り方には諸説あり)。睡眠時は周波数が下がっていき、最も深い眠りの時に0.5〜4Hzのデルタ波の帯域まで落ちます。脳波がおよそ8Hz以下の帯域にある状態をノンレム睡眠、8〜14Hzのアルファ波の帯域にある状態をレム睡眠といいます。夢はこの帯域内で見ているとされています。ちなみに脳波がゼロになると脳死状態。

瞑想時などは、入眠することなく脳波が下がっていき、アルファ波以下になっていると思われます。つまり、瞑想状態も変性意識ということです。

アルファ波とシータ波の境目、8Hzのラインを、ぼくは個人無意識と集合無意識の境界であると考えています。瞑想をしている時、意識を深く落としていくと、その境界を跨ぐような体験をすることがあります(妄想かも)。もちろん瞑想の最中は思考はほぼ止まっているので、瞑想を終えてからさっきの世界はなんだったんだろうと回想しているだけです。

夢においても、基本的にはアルファ波の帯域(レム睡眠)で見るとされてはいますが、ぼくは集合無意識の夢の領域もあると考えています。他者の意識と夢を通してリンクすることがあるからです。

また、深い瞑想状態になると、夢と同じ世界へ行っているのではないかと感じています。

例えば、夢でしか見たことがない景色や、現実では行ったことがない場所、そういったところに、瞑想中に同じような場所へ出たことがあり、見え方も非常によく似ているからです。

話が飛躍してしまいましたが、反対に興奮状態になると、ベータ波よりも高い脳波であるガンマ波を発することもあると思います。ただ、瞑想でもガンマ波を発することがあるようなので、一概に興奮状態とは言えません。

脳の専門家ではないので詳しくは分かりませんが、いずれにせよ変性意識とはベータ波以外の脳波を覚醒中に発している状態と考えて良いでしょう。

 

極度に集中している時もおそらくは脳波が特殊な状態になっていると考えられます。フロー体験やゾーン、トランス状態、没入、無我夢中、忘我……など、言い方は様々ですが、要はすべて変性意識の一種ということになります。

この状態になるのは決して難しいことではありません。集中して周りが見えなくなったり聞こえなくなったりした経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

 

最近読んだ『南方熊楠と岡本太郎——知の極北を超えて』という本の中で、その没入状態のことを熊楠は「直入(じきにゅう)」、太郎は「爆発」と表現していたと対談で語られていました。ものごとに対して「直入」あるいは「爆発」といった状態になることは、二人の巨人を含む特殊な人の特権ではなく、だれでも可能です。

変性意識状態は、個人の能力が最大限発揮される状態であるとも考えられます。適度にリラックスしながらも集中している状態。しかも大きな歓喜をも伴います。これは幸福な人生を送るための鍵でもありますね。

 

そんな変性意識状態をものごとに対して発揮したい場合、人それぞれ違う「興味」が入り口。そもそも全く興味がない事柄に対して集中するのはなかなか難しいですから。

つまり、何に対して自分は夢中になれるのか? ということに向き合っていく必要があるわけです。

自分自身の中にしか答えはありませんから、ググっても意味ないですよ(笑)。

何かものごとに対して夢中になっていれば、そのうち道も開けてくると思います。

 

仏教の華厳思想である四法界。そのなかの「事事無礙法界」とは、この夢中状態を表しているのではないかと考えられます。

ちょっと難しい概念なので、簡単に説明すると次のような感じです。

 

①事法界(じほっかい)
もともと、「自分」と「夢中になる対象」とは別々のもの。一般的な私たちがいる世界と言えます。

②理法界(りほっかい)
真理を表していて、すべてが繋がっている世界。

③理事無礙法界(りじむげほっかい)
真理に目覚めた世界です。

④事事無礙法界(じじむげほっかい)
真理に目覚め、さらに現実世界においても自他の区別がなくなったような状態です。

熊楠や太郎はきっと、④事事無礙法界の境地に至っていたのではないかと思われます。

無我夢中の状態ですね。

集中と夢中の意味を辞書で調べてみると、

「集中」:一つに集めること

「夢中」:我を忘れること

とあります。

意識があちこちに分散しているのが通常の状態であるとするなら、一つのことに意識が集まっている状態が集中です。

集中からさらに意識が入り込んでいくと夢中になって我を忘れる状態になる(集中というプロセスを経る必要はないかもしれません)。我を忘れるとは即ち自他の区別がなくなるということですから、まさに事事無礙法界の境地と言えるでしょう。

 

ところで、「子どもは遊ぶことが仕事」だと言いますが、「大人は働くことが仕事」なのでしょうか?

子どもは何に対しても自然と夢中になって我を忘れます。そもそも生まれてまもない赤ん坊は自他の区別がなく、成長すると自我が芽生えてきます。人間は誰もがもともと事事無礙法界にいたのです。

子どもの頃はたくさん夢中状態になっているはずですが、大人になるにつれて夢中から遠ざかっていきます。

熊楠や太郎のような変人は、きっと大人になっても子どものように夢中になっているだけだろうと思います。大人になっても子どものように夢中になることが、個の能力をさらに開発していくことに繋がるわけです。

大人にとっての仕事は、本当は何なのでしょうね?

大人も子どもと同じで遊ぶことが仕事ですよきっと(笑)。

 

『論語』述而には「子曰、志於道、拠於徳、依於仁、游於芸」とあります。

読み下すと「子曰わく、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ」となり、最終的に人間の行き着く境地こそ「遊び」なのです。

孔子もこう言っているのです。

人間の成長過程の最終到達地点は「遊ぶこと」。つまり好きなことを存分に楽しめということですね。

 

3.神との邂逅

昔、日本には「遊部(あそびべ)」という部民がありました。歌や舞を踊って天皇や皇族の鎮魂のために葬儀を行う一族です。芸能ごとは神様に通じるための手段の一つであったのでしょう。

「遊君」「遊女」などは、もともと神に使える者を指していました。

白川静の『字統』によると、「うかれ」「あそび」というのは、すべて人間的なものを超える状態を示し、「あそぶ」は「神遊び」が原義で、敬語の「あそばす」もそこから生まれたとのこと。

夢中になれることのヒントは、自分の内側にあります。「あれがしたい」「これがしたい」といった欲望の皮を被った、その奥にです。

本来、生物は本能に従って生きるのが最も自然なはずですよね。でも、人間には理性があるために、本能の外側にさまざまな欲望の肉をつけてしまいました。

生きるためには食欲は欠かせませんし、それは正常な本能。しかし、お腹が減っていないにも関わらず、世の中には魅力的な食べ物で溢れていたり、美味しそうな映像や宣伝文句で溢れていたりするばっかりに、ついつい必要以上に食べ過ぎてしまう。食べることは自然な流れですが、言うまでもなく食べ過ぎることは不自然なのです。

性欲も、子孫を残していくためには大切な本能。ところが、それが暴走して必要以上に性欲に溺れてしまうと破滅を招きますし、睡眠も取り過ぎは体に毒だったりしますよね。

「やりたいこと」に関しても、「楽ができる」「簡単に儲かる」「いいねが増える」など、様々な思惑が入り混じって、本当にやりたいことなのか、なにか下心のためにやりたいのか分からなくなってしまっているのが現代の問題だと思います。

また、脂肪は太るから悪だとして排除し過ぎるとかえって体に良くありません。適度に脂肪は必要なのです。何事も欲に関しても適度に必要で、良い塩梅を見極めることが大切です。

 

人が持っている欲には、「純粋な欲求」と様々な影響によって「肥大化した欲求」とがあります。

「純粋な欲求」すなわち下心なく欲することは、カントの「純粋理性」と同じで先験的に欲するもの。

図解するなら、人間としての本能が中心にあり、個性としての純粋な欲求があって、外側に肥大化した欲求があるという構造です。純粋に理由なく欲するものこそ、自分の個性として突き詰めていくべき対象であり、夢中になるべき理想の対象です。

 

私たち日本人の祖先はそういったことをよく分かっていたのかもしれません。神社のお社には鏡が置かれていて、それに手を合わせます。

「カガミ」から、「ガ」即ち「肥大化した欲求」を取り除けば、「カミ」になる。肥大化した欲求を祓って清めることで、神人合一するということ。

何を清めるのかって、場より部屋より他人より、何よりもまず自分自身を清めることが大事なんですよ。

その神とは、もう一人の自分、本来の自分自身。もともと一つであったものが分裂してできたのが自分自身。夢中になるということの先にあるのは、神との邂逅であって、本当の自分に「出会い直す」ということ。

そうすると、熊楠の「直入」とは直接そこへ入っていくこととばかり思っていましたが、案外「入り直す」ことなのかもしれません。

 

神道で大切な「禊ぎ」と「祓い」。この言葉にはそれぞれ相反する二つの意味が込められていると思います。「ミソギ」には、削っていく「身削ぎ」と注いでいく「身注ぎ」。「ハライ」には取り払う「払い」と、霊すなわち気を溜めていく「張霊」。

肥大化した欲求は身を削ぎ、払う。純粋な欲求に対しては注ぎ、張って充満させていく。引くばかりでなく足すことも重要ですからね。

そういったことを感覚的に理解して、「身を入れる」「身を立てる」といった言葉ができているのではないかと思います。ここでいう「身」は、体のことではなくて、心、力、身分、仕事、いのち、利益、人生、立場などもっと大きな意味を持っています。

そして、祓いは「笑い」とも通じています。古事記に出てくるアマテラスの岩と隠れの話で、アメノウズメは裸踊りで八百万の神々をどっと笑わせました。多くの解説者は、ストリッパーのようなエロティックなものとして解釈しますが、イザナギイザナミの話では性器のことが表されていたりと古事記にはわりと下ネタがあっけらかんと書かれています。もし仮にストリップダンスが始まったのなら、なぜどっと笑うのでしょうか? 興奮する男がいたとしても、エロティックなシーンで大笑いするようなことはあまり考えられません。だとすると、この時のアメノウズメはエロティックなストリッパーではなくて、お笑いの裸芸人なんです。一時よく出ていたアキラ100%のように、ウズメ100%なんですよ。

これが神を楽しませると言う行為であって、神と通じるための「遊び」です。アマテラスが鏡に映った自分の姿を見て偉大な神であると感じるシーンは、「神とは自分」であるということを読み手に訴えかけているのかもしれません。

孔子が言った「芸に遊ぶ」とは神を楽しませることであり、その神とは本当の自分なのです。

 

そんな八百万の神々を中心としていた古代とは打って変わり、現代の私たちの価値観は「人間中心主義」とされ、自然界の頂点に人間が立つピラミッド構造で表されています。

ピラミッドの一番上に「お金」があって、それに振り回されています。今年、新紙幣が出て渋沢栄一が顔になったのも、資本主義や経済至上主義を表しているようでホントに嫌です。渋沢栄一がどうのこうのではなくて、その人を紙幣にするのはどうかと……。言ったところでそうにもなりませんが。

ピラミッドをひっくり返すと古代以前の日本の価値観が見えてくると、先述の熊楠と太郎の本の著者の一人、石井匠氏が語っていました。この逆さまのピラミッドの価値観こそが、縄文の心であって、私たち日本人の本来の価値観。全てのものに神性が宿っており、大切にする。すべてに宿っているからこそ、自分自身にももう一人の本当の自分である神がいるのです。

 

本当の自分との出会い、神との再統合は、龍神際で唱える「龍神祝詞」にも書かれているように思います。

「ひふみよいむなやこと」という十種の神宝がそれです。

日ユ同祖論を説いた研究者は
「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とう」
という日本式の数え方をヘブライ語に直すと次のような詩になると言います。

Hifa:その美しい方
mi:誰が
yotzia:彼女を出すだろう
ma:何と
naane:言葉をかける
ykakhena:誘って連れ出す
tavo:彼女がくる

明確な根拠というより、若干こじつけの匂いも感じはしますが、その言わんとすることは自分のうちにある本堂の自分、神の存在を彷彿させます。

いかにして美しい方「本当の自分」と出会い直すのか? という問いかけのように感じられます。

その答えは言わずもがな「遊び」にあるということですね。

 

龍神祝詞では、そのあと「十種の御寶を己がすがたと変じ給いて自在自由に天界地界人界を治め給う」と続きます。

十種の御寶を「出合い直した本当の自分」と解釈すると、そうすることで天地人の三階を自由に治められる。

「治める」は、もともと「をさむ」と表記しており、「統治する」の他に「物事を穏やかに平定する」「心を鎮める」「礼儀や学芸を身につける、習得する」などの意味を含んでいます。

つまり、本当の自分との出合い直しによって、心穏やかに過ごすことができ、礼儀・学芸を磨き、そういった人々が増えていくことで自ずと世の中が平和になっていく……そんなストーリーが浮かびます。勝手な解釈ですけどね。

 

そのために、まずは自分の純粋な欲求を探り当てて夢中になって遊びましょう。そうるすことで、思いがけない本当の自分との出会い、神との邂逅が待っていて、突如ボカンと爆発するかもしれません(笑)。

また、爆発しっぱなしというわけにはいきませんから、爆発したらまた出会い直しの旅が始まっていく。繰り返しているように見えて、実は螺旋階段を登り続けていく、それが人生なんでしょうね。

 

禅の十牛図でも、最後に到達するとまた振り出しに戻るような場面が示唆されていますが、振り出しに戻ったようでいて、実は一段高い地点に登っているんです。

 

十牛図は時々勉強会で話を出すのですが、一応簡単に解説をつけておきますね。上の図を見ながら読んでいただけらと思います。

牛を悟りに喩えて求道者が歩んでいく様子が10枚の絵に描かれていて、悟りへ至る段階を表しています。

牛は「真の自己」を表していますから、まさに本当の自分との出合い直しの旅が描かれているわけです。

①尋牛(じんぎゅう)
本当の自分(悟り)を探す旅の始まり。旅人はまだ右も左も分からない状態。

②見跡(けんぜき)
自分を知る手掛かり、経典などを意味する牛の足跡が見つかます。
本当の自分が何を欲しているのかが少し見えてきました。

③見牛(けんぎゅう)
はじめて牛の姿を見つけます。
しかし、捕えることは一筋縄ではいきません。

④得牛(とくぎゅう)
なんとか捕まえはしたものの、自分のものにしたとは言えない。
油断すると逃げてしまうのでしっかりと繋ぎ止めておく、自分としっかり向き合う必要があります。

⑤牧牛(ぼくぎゅう)
ついに牛を飼い慣らします。
自分の中の神、本当の自分の存在を意識し始めます。

⑥騎牛帰家(きぎゅうきか)
牛に乗り、一体化して家に帰ります。
本来の自分と再統合することができました。

⑦忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)
家に帰って、牛の姿は消えてなってしまいました。
絵には描かれていないだけで、実は牛と完全に一体化し一つになったのでしょう。

⑧人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)
旅人も牛も家も何もなく真っ白な空の境地。
完全に無我となって自他の区別がなくなった状態。

⑨返本還源(へんぽんかんげん)
自然が描かれ、悟りとはどこか遠くにあるのではなく今ここにあることを示唆しています。
螺旋階段を一段上へ上がりました。

⑩入鄽垂手(にってんすいしゅ)
町(もといた世界)へ戻り、今度は自分が導く番。
あるがままに遊ぶこと、それが自ずと世のため人のためになっていく。
花咲か爺さんのように、本当の人生がここから始まります。

 

このように、すべては螺旋状に循環しながら進んでいくのが生ける「命のあり方」なのだと思います。ミクロなDNAもマクロな地球の公転も、螺旋を描きながら少しずつ変化して進んでいますから。

変性意識は、肩の力を抜いて自然体であることがコツだと思っています。肩肘張らずに自然体で、内なるボイスに耳を傾けていれば、そこに神との邂逅があるはず。

 

今回は「10」にちなんで、「ひふみよいむなやこと」のあいうえお作文でできた詩を紹介して終わりにしましょう。

菊雄さん、久々の登場です(笑)。

ご存知ない方は以下をご参照ください。

おまけ

最近撮った写真でちょっと遊んでみましたので、おまけで載せておきます。

写真撮るのはなかなか難しいけど、カメラで遊ぶの楽しいです。