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和の情 テーマ「原」

 目次

    1. シンギュラリティー到来
    2. 人間の役割
    3. 原風景

 

 

1.シンギュラリティー到来

「シンギュラリティ (singularity)」は、人工知能等の技術が人間の知能を超える時点。それがいつ起こるかについては、アメリカの発明家レイ・カーツワイルが2045年だと提唱しています。人の労働や貨幣が不要になる社会、エネルギーの無料供給といった社会的な転換点である「プレシンギュラリティー」はもっと早く、2030年ごろに到来するのではないかと言われています。ITに精通する人のなかではシンギュラリティーが2025年であるという意見もあり、AIは想定よりもはるかに早い成長していることは間違いありません。

出典:「やがて来るシンギュラリティー。今、企業がやるべきことは?」より
https://www.nttcom.co.jp/comware_plus/trend/201711_1.html

 

そいういった技術発展によってもたらされる恩恵を我々一般庶民が受けられるのは、先駆者がある程度のインフラを構築し終えて立ち位置を確立させてから。それまでは言語的、専門知識的あるいは金銭的な防壁を崩さないので、飛び抜けた才がなければ介入するのはなかなか厳しい。ただ、準備段階が終われば一般に普及させていくのはごく自然な流れなので、技術が世の中に一般普及してから参入すれば、テナント利用的に甘い蜜を吸うことができるのでしょうね。そして利用者となる一般大衆は、対価を支払って利便性を得ることになる。このような縮図はこれまでの技術発展同様の流れになっていくと思われます。

一昔前の感覚では想像もつかないような未来がそこまでやってきています。しかし、2025年になってようやく戦後80年。80年前の日本は、まだ敵国に勝てると信じて女性や子供までもが戦闘訓練を強いられていました。さらにそこから80年を遡ると明治維新。160年前まで日本は鎖国をしていたのです。はるか遠い昔のような気がしてしまいますが、明治維新からほんの160年しか経っていないのです。

身近なところでは1999年まで携帯電話は白黒ディスプレイで、25年前はスマホなど当然ありません。今、私たちが当たり前のように肌身離さず持ち歩いて手放すことのできない生活必需品となったスマートフォンは、2007年のiphoneの登場がターニングポイントで、ほんの17年前。人間の年齢で言えば、まだ成人していない高校生。そもそもこのブログを書いているインターネットにしても、始まりはアメリカで1967年から、日本では1984年から始まりました。戦後40年、そこからたった40年でITテクノロジーは爆発的な進化を遂げました。これからは、人間の知能よりも早く正確なAIの代替によってさらに加速していきます。

第四次産業革命(Industry4.0)をさらに補足・拡張し、持続可能性を追求する「Industry5.0」なるものが2021年に欧州委員会から発表されました。産業革命の加速度的発展を踏まえても、とにかくAIの成長はこれまでとは比較にならない速度で成長していくのでしょう。

人の仕事が奪われるとの危惧もありますが、人間がやっている仕事をAIがやってくれるのであれば、時間をもっと別のことに使えば良いと思います。奪われるから必死で抗うのではなく、どんどん渡しちゃえば良いんじゃないでしょうか。AIがあろうとなかろうと、今やっている目の前のことに固執するのではなく、人がやる仕事は時代とともに移り変わっていくものとして諦める潔さも必要です。今までどれだけの時間、どれだけのことをやってきたかはさほど重要でなく、需要があるかないかで必要な仕事は生まれ、不要な仕事が淘汰されていくものです。

 

これからの時代に私たち人間に求められるのは、AIロボットのような正確性や高速処理ではなく、反対にゆっくり味わうことや正確性とは反対の曖昧さなのかもしれません。少なくともAIの得意分野において人間の勝ち目は皆無。何を追求すべきなのかを見誤ると生き場を失ってしまいます。

 

2.人の役割

2020年、デヴィッド・グレーバーという人が書いた『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』が話題になりましたが、機械やAIに任せた方が良いような仕事にわざわざ人がしがみつく必要はありません。また、他人の真似をするような二番煎じも必要ない。求められるのは独自性や人間性といった要素になると思います。

価値を決めるのは希少性と有用性。

ありふれたもの、役に立たないものも価値が低くなります。指示通りのことをこなすような仕事は機械やAIがやってくれますから、他にはない独自性やその人ならではの個性が希少的な価値を高めてくれます。一つのことしかできないのは代替する何かが出現すると廃れてしまいますが、二つ以上のことを掛け合わせることで独自性が強まり、自分独自の個性となる可能性があります。独自性は掛け算によっていくらでも生み出せるチャンスが転がっています。

仕事においては質の高いものは上を見ればキリがないし、業界トップの企業であっても商品やサービスには競合がつきもの。美味しいプロの味が食べられるレストランはあちこちにありますが、家庭の味は自分にとって唯一無二。料理で言えば、品質として最低限の美味しさが求められますが、一定以上の味があればそれなりに満足できます。しかし、とても美味しい人気レストランであっても、シェフが嫌な人であったり、自分と相性が悪く性格が受け入れられなかったり、「どんな人か」が重要になってきます。大好きな恋人が作る料理であれば少々味に不満があってもそれが幸せなのです。

仕事のうえでは、自分がいかに思い浮かべてもらえる存在であるか、思い出してもらえるかどうかはとても大切です。人間性は、日々の人間関係の積み重ねですから足し算のイメージです。

 

社会に対して自分が何を提供するのかが重要であると同時に、自分が何に価値を感じるのかも重要。

某牛丼チェーンのキャッチコピー「うまい、安い、早い」は、創業当時は「早い、うまい、安い」だったそうな。どちらでも構いませんが、最低限の美味しさ、費用対効果、提供スピードによって、大衆の求めているものとマッチして急成長しました。今では驚くようなスピードで料理が出される店も珍しくないですが、いくら早いといっても限界がありますし、AIによって仕事に追われる必要性はどんどんなくなっていくことを踏まえると、ゆっくり味わえることにこそ何より価値が高い。ゆっくりと食事を楽しむ時間は贅沢で特別なことのように感じるかもしれませんが、それが日常になると良いですね。

人が原点回帰していくと、速さよりもゆっくり、確実性よりも人間らしい不完全さ、無駄を省いた合理性よりむしろ一見無駄なプロセス、便利なものより不便なもの、利益のために動くのではなく採算度外視で興味関心によって行動する。未来はこのようなことに価値を感じるようになると予想しています。というか、今の自分の価値観です(笑)。

 

そのうえで何に対して幸せを感じるのか?

これは別にAIがなくても同じことですが、自分が経験することを「良いこと」「悪いこと」とジャッジして、良いことがあれば幸せ、悪いことがあれば不幸、というような価値観でいるとしんどいです。起こる出来事を味わえることが幸せなんだと気づけたら、生きていくのはとても楽になる。何にもやることがない、良いことしか起こらない(イコール良いも悪いもないですが)、何も経験できない、というような状態にもしなったら、そんな辛いことないですよね? だから、やることがあって何か出来事が起こることは、実はとても幸せなこと。嬉しい、悲しいといった感情が動くからこそ、生きてることを実感できますし、幸せなのだと思います。

「食事は残したらアカン!」「好き嫌いせんと全部食べなアカン!」

そんなことを言われた記憶はありませんか? 起こる出来事というのは、食卓に出された食事のようなもので、好き嫌いせず何でも味わって、ありがたくいただくべきです。本格的なレストランに行きたいとか、よその家はもっと豪華だとか、他と比べて目移りするのではなく、目の前に出された食事が何であろうとありがたくいただく。これが大事。

他に目移りしたり、他と比べたりすること自体が不幸の原因です。足るを知れば、人生は楽になる。何百年も前からそんなことは教えられてきたはずなのに、なぜか、一部の人だけが知っている秘訣があるんじゃないかって思ってしまうんですよね。そういう人はカモにされやすいから注意してください。

他者との比較に囚われた人生を歩んでいる人は、自分よりも大きい・多いと感じる他者に対しては妬んだり羨んだりします。反対に自分よりも小さい・少ないと感じる他者に対しては蔑んだり優越感に浸ったりします。自分じゃないところにピンが刺さっているから、自分の内側に充実感や幸せ、安らぎ、仏教用語で言えば「涅槃(ねはん)」があるってことになかなか気がつけない。みんなが内なる充実感を見つけられたら、戦争はなくなるでしょう。そんなことをしてるほど暇じゃなくなりますから。

比較の世界、相対的価値に軸を置いて生きていると、自分がやることはいつも二番煎じになってしまい、「もっともっと」と求め続け、物やお金、権力、競争中心の地獄にいるも同然。そこから抜け出して、自分の内側にピンを刺して比較に囚われない絶対的価値観の世界に住めば、安らぎと豊かさ、充実感があって、自分の本領を最大限に発揮できますし、周りのことは気にならなくなる。これが、読んで字の如く自らを由とする本当の「自由」です。相対的価値の世界では自分以外の世間を由としているから「世間由」、もしくは他者比較の世界ですから「他由」といったところでしょうか。

絶対的な価値観の世界に生きるために、自分は何が好きなのか? 何が得意なのか? といったことを深掘りしていくことが大切です。食卓に出された食事を好き嫌いせずになんでも食べていると、自然と自分の好みが見えてくる。人と過ごしていろんな経験をしていると、他人よりもすんなり出来ることが見つかって得意なことが分かってくる。好きこそものの上手なれと言いますから、その二つが重なることもあるでしょう。好きなことと得意なことを通して、他者の役に立つことをする。そんなシンプルなことが、自分独自のオリジナリティあふれる仕事につながっていきます。

ここでいう仕事は、対価のあるなしに関わらず他者の役に立つかどうか。何かの役に立てる、役割があるということに人間は幸せを感じますから、オリジナルの仕事は幸福に直結するのです。

アリストテレスは、幸福は「人間のアレテーに基づく魂の活動」によって得られると定義しています。アレテーは書籍などでは「徳」と翻訳され、卓越性と呼ばれているのですが、非常に分かりにくい。もっと分かりやすく「らしさ」って解釈しても良いと思います。つまり、その人らしさ、オリジナリティを最大限に発揮した活動と言い換えられる。魂の活動とは、儲かる儲からないとか、チヤホヤされるされないとか、他者を気にした相対的価値を基準にした活動ではなくて、絶対的に自分が心の底から納得できる活動と解釈すれば良いでしょう。

自分らしさ、人間らしさを育むことが、AI時代にのびのびと生きる秘訣にもなるでしょう。人間を育む指針として、また食卓に出された食事を好き嫌いせずに食べるために、安岡正篤の「六中観」というのが一つの指標になりそうです。

「苦中楽あり」は、嫌いな苦いピーマンの中にこそ、体にとっても良い栄養があるといった感じです(笑)。ぼくはピーマン好きですよ。

忙しさの中に閑かさがある、もっともなのですが、前提となる忙しさが歪んでしまっているのが現代。「六中観」のもっと手前、何に忙しく過ごすのか? 何に苦しむのか? 何に切羽詰まるのか? という前提が重要です。

少なくともAIと真っ向勝負をして忙しくしたり苦しんだりしては話にならない。絶対的価値観の世界の中で忙しくしないといけません。生活に必要なことはほとんどAIロボットや機械がやってくれるとなると、原点回帰していくしか道がなくなってきます。未来の人間の活動は原始的な自然に還っていくのかもしれません。

自然を手本とし、自然に添い、自然と分かち合う。人間中心的な目線で環境を守るとか大切にするのではなく、自然を畏れ敬って信仰する、縄文人のような感覚を取り戻せたらシンギュラリティー以後の時代で幸福を得られるはずです。

佐藤一斎も言っています。もっとも優れた人は天=自然を師とし、その次は人を師とし、その次は書物を師とする。時代が移り変わっても変わらない本質を見極めること目は必要不可欠です。

 

 

3.原風景

いつものように白川静の『字統』から「原」の成り立ちを調べてみました。

厂/かん(崖/がけ)の間から泉(垂水/たるみ)が流れている形。水源の意を表す。源の初文。
平原の原とはもと異なる字である。水源の意よりして原本・原始・原委・原因・原由、また推原・遡原の意となる。

「原っぱ」のイメージがありましたが、「源(みなもと)」が本来意味するところだったのですね。

しかし「原っぱ」も、人間のなかにある現記憶として刻まれているような気がします。田舎の風景は、見たことがなくてもなぜか懐かしさを感じる。先日、次の民話というテーマで映画を制作されている松井至監督の作品の上映会に参加させていただき、まさに見たことも行ったこともないのに懐かしさを感じている自分がいました。少なくとも都会のコンクリートの建物だらけの場所に懐かしさは感じません。

下記のAIで生成した画像ですら、田舎の風景にはなんとなく癒されませんか?笑。

そもそも生命が安らぎを求めるのは、大もとの命がその方向へ向かっているからなのだと思います。命が向かっていく方向に合わせて自然は成長している。自然の中にある生物も、命の流れに添っていくことが結局は幸福につながっていくのだと感じています。

人間の原点、人間らしさとはなんでしょうか。

言葉を使うのもその一つですね。これまたAIに聞いてみると次のように出てきました。

芸術性、倫理と道徳、創造性、社会的つながり、不完全性、自由意志と選択、直感と感覚、価値観の形成。

これだという一つに絞るのは難しいかもしれませんが、栄養をとって子孫を残すといいう動物的本能からもう一歩進んだところに人間らしさはあります。稲を刈り、精米をして米を炊き、おにぎりにして食べる、あるいは収穫した野菜を漬物にして長期間保存するようなことは動物にはない人間らしさだと言えるでしょう。

AI時代が進むと、衣食住をはじめとする基本的な生活には困らなくなると言われています。しかし、農家の高齢化や年々減少している状況を考えると、自然の米や野菜はとても高価なものにならざるを得ません。そうすると、経済力のない一般庶民は生きていくために必要な栄養を、大量生産されたサプリメントや人工的な食品によって摂取していくのが基本になってしまいそうです。これでは生きているとはいえ家畜のようじゃありませんか? AIによって生活が担保された未来が人類の家畜化ではないことを願います。

ぼくがやっているような仕事、デジタルなデザインの制作なんてAIがやった方がよっぽど早いし正確になるでしょうから、わざわざ人間がやる必要がなくなっていくのは目に見えています。それらを誰もが使いこなして納得のいくものを作れるかどうかは分からないので、まったく人の仕事としてなくなることも考えにくいですが、未来のことはわかりません。人から必要とされる存在であるように頑張ります(笑)。

生物の原点、人間の原点を考えてきましたが、最後は自分の原点、自分らしさ。

生まれ育った環境や受けてきた教育には影響されるでしょうし、自分自身を掘り下げるなら何に興味関心があるのか、人と接する中で経験したことや感じたことを内省していくと見えてきます。また、習慣や癖なども自分らしさを形づくる要因。

どこかの誰かができることはAIが一般化していく未来社会で、二番煎じは今以上に淘汰されていきます。自分ならではの「個性」と、AIにはない「人柄」が重要になってくるはず。AI時代は、クセの強い変わり者がのびのびと活躍できる場なのかもしれません(笑)。さあみんな変人になっていきましょう。

とりとめのない話になってしまいましたが、年末にさしかかり、来たる2025年は人類のターニングポイントになりそうです。今回は未来に考えを巡らせると同時に、過去や原点にも思いを馳せてみました。

最後に、これからを生きるために必要に力は何かを考えてみましょう。勉強会でいろんな意見を聞けたらと思い、問いかけでみるつもりですが、ぼくが思いついたことをいくつか書き出しておきます。

・答えのある問いを解く力ではなく、答えのない問いを考え抜く力

・確実な道を辿る力ではなく、不確実な道を切り開く力

・合理的な高速処理よりも、無駄を楽しみゆっくり味わう力

・細かいことを気にせず大いに遊ぶ力

人の意見はあくまで参考程度。自分自身をほじくり回して出てきた魂の声が正解です。間違っても、未来を生き抜くために何が必要なのか検索したり人に聞いたりしてはダメですよ。

おまけ

10月の誕生日、夜中に目が覚めて見に行った星と月と日の出の写真を組み写真のようにしたので、ポストカードにして参加してくれた方々へのプレゼントにしました。4枚の写真を組み合わせているように見える(?)2枚の写真です。

もう一つは音羽の滝にて、崖の間から泉が流れている様子を表す「原」っぽい写真を。

 

さらにもう一つは、星空を見てオリオン座ぐらいしか分からないので、もう少し星座の勉強をしてみようと思い、撮影した写真に目印となる星の名前や星座を書き入れてみました。

気に入った写真が撮れるとテンション上がるのですが、なかなかコレだ!って思える写真が撮れないのが辛いところ……。

 

そんなこんなであっという間に今年も終わりが近づいていますが、今できることを精一杯取り組んで楽しんで参りましょう!