目次
1.様々な死生観
どのような人生を送りたいか?
「人生観」について考えたり議論したりする機会はたくさんありますが、死と向き合う「死生観」についてはあまり注目されません。終活というように、ある程度歳を重ねてから考えれば良いといった風潮があります。
私たちが人生を歩むなかで確実なものなど何一つなく、保証されているものもありません。たった一つ、いつかは「死ぬ」ということだけが決まっているのです。それなのに、死から逃れたいと願い、死から目を逸らして今の幸福や充実することで誤魔化してしまうのは筋違いだと言えます。
死んだらどうなるのかという問題に関しては、生きている間は証明しようのないことでですが、釈迦やソクラテスの時代から死後の世界については考えられてきました。
ソクラテスは独自の屁理屈で(笑)霊魂の不滅を証明し、釈迦はもともとインドにある輪廻の思想をもとに解脱することを説きました。僕が好きなのは「パスカルの賭け」で、死後の世界はあると信じて生きておけば、最悪、死後の世界は何もなかったとしてもプラマイゼロになるという割り切った考え方。(詳しくは「パスカルの賭け」で検索すれば内容は分かります)吉田松陰は、肉体は滅びても大和魂は不滅だと辞世の句を残しています。
昨年上映された、ジブリの映画「君たちはどう生きるか」を最近DVDで見たのですが、よく分かりませんでした(笑)。「どう生きるか?」という問いかけは考えさせられる気もしますけど、今回の勉強会でテーマとしたいのは「どう死ぬか?」です。
どう死ぬかといえば「武士道」。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の言葉が有名ですね。死に対して最も真っ直ぐ向き合っていたのは武士の精神であろうと思います。
切腹や辞世の句は死の覚悟の表れ。死に際の潔さ、実際のところは意見の分かれるところかもしれませんが、信長の「是非もなし」という最期の言葉も印象的です。
死と隣り合わせであることを自覚し、常に身なりを整え、刀の手入れを怠らず、命よりも名誉を重んじていた武士。生き恥を晒すなら死んだ方がマシだと考え、自分に正直に、忠義を尽くす生き様は生き方の手本となっていました。
そんな『武士道』の中から興味深いエピソードを一つ引用してご紹介します。
史実として巷間伝えられるところによれば、江戸城の偉大な築城者であった太田道灌が槍で刺されたとき、道灌が歌の道の達人であることを知っていた刺客は、その一突きとともに、次のような上の句を詠んだ。
かかる時 さこそ生命の 惜しからめ
これを聞いた道灌は、脇腹に受けた致命傷にいささかもひるまず、息も絶えようとするさなかに、
兼ねてなき身と 思ひ知らずば
と、下の句を続けたのであった。
勇気ある者にはスポーツの要素すら見られる。普通の人には深刻なことでも、勇敢な人にはまるで遊びのようであったりする。昔の戦いでは合戦の相手同士が当意即妙なやりとりを交わしたり、大音声で自己紹介をし合ったりした。『武士道』
この句は、「前々から死んだ身と思い知っていなければ、こんな時には命が惜しいと思うだろうが、もとから命は無いものと覚悟している自分にとっては惜しいことだとは思わない」という意味です。
死に際、このように当意即妙なやりとりができることには憧れます。素晴らしいですね。
先日、オーブントースターで唐揚げを温めて食べようとしたところ、脂が落ちて引火して炎が立ち上ってしまい、火事の一歩手前でした。そんな時も、慌てず平静を保って一句読みました(笑)。
実際の自分の死に際もユーモラスでありたいものです。
このあと、帰ってきた奥さんが真っ黒焦げのオーブントースターを見て、みっちり叱られたのは言うまでもありません。
気をつけましょうね(笑)。
武士の死に方には興味が湧きますけど、歴史上の人物はどのような死に際であったのかも気になるところ。
『人間臨終図鑑』を参考に、様々な人物の臨終を覗いてみたいと思います。個人的に気になってページを開いてみた人物を独断と偏見ピックアップしていますが、お付き合いください。
一休さんは禅僧でありながら、人間味を感じさせてくれる死に際です。
北斎やゴッホの臨終を見ると、芸術家は死を超越した次元で活動していたのかと思えるような最期ですね。
どのように死ぬかによって、その人が人生において何を得たのか、どのような精神を持っていたのか位置付けられます。「終わりよければ全てよし」という金言の通りなのです。
ちなみにこの「終わりよければ全てよし」はシェイクスピアの戯曲のタイトル。
一般的に「何をして生きるか」「どのような生き方をするか」の順に人生について考える場合が多いですが、本来はその逆で「死に方」から考えるのが至極真っ当な気がします。
googleマップで検索するにしても目的地からですし、本来は当然のことなのですが、こと人生においてはなぜか時間軸通りの方向へ考えてしまうのは、死と向き合うことを恐れて目を背けているせいではないでしょうか。
どう思われますか?
2.終わりよければ…
「終わりよければ全てよし」ですが、反対に「終わり悪ければ全て悪し」ということになってしまいますね。その代表例として出すのは失礼な話ですが、最初に安岡正篤を挙げたくなりました。
論語の勉強ではとてもお世話になりましたし、ビジネスシーンでこの人の言葉を指針としている会社や人も多いのですが、人生の終盤がなんとも残念で、これまでにいくら良い活動をされてきたり良い本を書かれたりしていたとしても、全部台無しになってしまいます。
安岡正篤は陽明学者、哲学者として政府顧問となり、終戦の詔勅にも筆を加え、草案「永遠の平和を確保せんとす」を「万世のために太平を開かんと欲す」と改めさせた思想家。
晩年の様子を『人間臨終図鑑』から引用します。
細木数子と意気投合し、すでに妻を失っていた彼は、その夏、彼女に捺印つきの婚約誓約書を渡すに至った。
ところが九月はじめ安岡が胃痛で倒れてから、細木が安岡家を訪れても家族から面会をことわられるようになり、そのうち小康状態を得た正篤は十月四日、高野山にいる実兄、九十二歳の大僧正のもとへ旅行に出てしまった。実は家族から避難させられたのである。 高野山で正篤は兄と食事中、吐血して、大阪の住友病院に運ばれた。
細木は安岡のゆくえを教えられないまま、十月末、役所に正式の婚姻届けを出し、彼の入院先を知ると大阪の病院へかけつけたが、正篤の長男に押し返される騒ぎをひき起し、告訴した。安岡家のほうでは、正篤は昭和五十四年秋、前立腺肥大の手術を受けてから老人ボケの症状が甚だしくなり、右の婚約誓約書は無効であると申し立てた。
これが、かつて二十歳も年上の吉田茂から「老師」と呼ばれ、以後歴代の首相、財界の巨頭らから天海僧正のごとく師礼をとられ、日本の右翼思想の支柱といわれた高士の、死を迎えての珍スキャンダルであった。
しかし、笹川良一は面白がっていう。「この恋愛問題(!)がなければ、安岡の一生はあまりにも無味乾燥の一代であったと思う」
人生の締めくくりに細木数子とのスキャンダル……。僕は彼女に対してあまり良い印象を持っていないので、余計に残念な気持ちになりました。
どれだけ立派なことをしてきたとしても、晩節を汚すと全部吹っ飛んじゃいますね。
先に例として挙げたフランスの数学者であり思想家のパスカルですが、こちらも『パンセ』は好きで読みましたし、考え方も好きなのですが、死に際がちょっと……。
一六六二年八月十七日、医者は彼に脱脂乳を飲ませたが、彼は痙攣を起しはじめた。
かつて『パンセ」で、
「人間は、死と無知について不可抗なので、幸福になるために、それらについては考えないことにした」
「それまでの場面がどんなに美しくても、最後の幕は血にまみれている。最後に、頭上からばらばらと土をかけられて、それで永遠におさらばとなる」
と書いたパスカルだが――。それでも「聖体拝受」のために主任司祭がやって来たとき、彼はさけんだ。
「願わくは、神、永遠にわれを見捨て給わざらんことを!」
それから二十四時間にわたって、一瞬もやまない痙攣の苦痛にさいなまれたのち、八月十九日午前一時に息をひきとった。
神に見捨てないように願うとは、賭けても賭けきれていなかったのだと思うと残念です。書かれていることがすべて事実で間違いないとも言い切れないので、実際のところは分かりませんが。
尊敬する吉田松陰でさえ、処刑の前日に『留魂録』を書き残した吉田松陰でさえ、処刑の直前には怯えた姿としていたそうです。
死の前日の黄昏、伝馬町の牢獄内で松陰は、友人と弟子への遺書『留魂録』を書き、その冒頭に、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」
と、しるした。
その翌日、安政六年十月二十七日、同じく志士として入牢していた世古格太郎は、松陰が死刑を宣告されて、お白洲から出て来るところを目撃した。
「……大声にて、公儀を憚らず不届の至りにつき死罪申しつける、と聞ゆるや否や、白洲騒がしく、一人の囚人を 下袴ばかりにて腕をとらえ、二三人にして白洲より押出し来たり。誠に囚人気息荒々しき体なりき。直ちに仮牢に押入れ、立ちながら本縄に縛せり。予これを視るに吉田寅次郎なり。……吉田もかく死刑に処せらるべしとは思わざりしにや、彼縛らるる時まことに気息荒く切歯し口角泡を出 す如く、実に無念の顔色なりき」
前日覚悟の遺書を書いたはずだが、それでも現実の死刑宣告は彼にとって衝撃だったのであろう。矛盾よりも、人間とはこうもあろうと思わせる。
弁護するわけではないですが、どれだけ死を覚悟しても、やはり恐怖してしまうということなのでしょうか。それとも、不本意に死刑にされてやりきれない無念の思いが強かったのかもしれません。
それに対して、三島由紀夫の死に際は強烈で、覚悟と信念が伝わってきます。比較すると、良し悪しは別として死に際の潔さに関しては吉田松陰よりも三島由紀夫の方が勝っていたのだと認めざるを得ません。
昭和四十五年十一月二十五日午前十一時ごろ、三島と「楯の会」の青年四人は、東京市ヶ谷の陸上自衛隊 東部方面総監室にはいり、陸将益田兼利と雑談し、三島は携行した日本刀、関の孫六を見せたりしていたが、突然部下と共に益田に襲いかかって、ロープで椅子にくくりつけ、その物音を聞いて駈けつけた自衛隊の将兵数名に、日本刀をふるって斬りつけ、追い返した。
それから三島は、所在の自衛隊員らを前庭に集めることを命じ、午後零時ごろから、みずからバルコニーに出て檄文をまきちらし、演説をはじめた。
「……自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへいったのだ。自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るのか。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」
しかし、前庭に集められた約八百人の自衛隊員には蛙のつらに水で、彼らはただあっけにとられ、かえって弥次を飛ばす始末であった。十分間ばかりで三島は演説をやめた。
「今こそわれわれは、生命尊重以上の価値の所在を、諸君の眼に見せてやる。天皇陛下万歳」
といいすてて、彼は総監室に戻り、制服の上衣をぬぎ、正座して、短刀を両手に持ち、気合をいれて左脇腹に突き刺した。
隊員の森田必勝が介錯したが、三太刀斬りつけてうまくゆかず、苦痛のために三島は舌を噛み出した。別の隊員古賀正義が、代って三島の頭部を斬り落した。ついで森田が割腹し、古賀がただ一太刀で介錯した。
三島の辞世
「散るをいとう世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」
彼は、彼の美学によって自分の死を創作した。それこそが彼の目的であったと思われる。
彼の思想に共感できるかどうかはさておき、これだけ肝が据わって堂々と潔く死んでゆく姿には一種の「美」さえ感じてしまいます。
他には「やり残しがあるからまだ死ぬわけにはいかない」という人物も少なくありません。その代表が夏目漱石でしょうか。
二十二日昼、女中が薬を持って書斎にはいったところ、机に原稿をひろげたまま一字も書かずに倒れているのを発見した。これから漱石は臥床し、以後衰弱を加え、数度人事不省に陥るに至った。
十二月九日午後五時過ぎ、漱石はひどく苦しみはじめ、自分の胸をあけて、
「早くここへ水をぶっかけてくれ。死ぬと困るから」
というような意味のことをいい、看護婦が水をふくんで吹きかけると、「有難う」といい、そのあと意識を失ってしまった。
——この「死ぬと困るから」という言葉が漱石にあるまじき言葉だとして後に問題になった。しかし、人間が「死ぬと困る」理由は一つだけではない。
漱石の場合、これをただ凡人なみに家族を案じてのものであったと解釈しても、充分同情出来る。このとき漱石には三十九歳の妻鏡子と、十七歳の長女筆子を頭に幼い子供が六人もあった。そして彼は死ぬ当時、自分が永遠のベストセラー作家たる存在になろうとは、おそらく予想もしていなかったにちがいない。漱石は大いに心配しつつ死んだのである。
死ぬと困るという表現は実にストレートで、これはこれで爽快です。
ソクラテスは自分の死よりも他のことに意識がいっていて、自分の死は自然の摂理の一環であって仕方がないのだと受け入れているように感じさせてくれます。ただ、プラトンの作品内で語られていることので、事実は違った可能性もあります。
いずれにせよ、使命感に溢れる人物は自分の命よりも使命の方を優先していることが伺えますね。
彼は自殺したのではない。みずから毒をあおぐというアテナイ法廷の判決に服したのである。
「ーあの方は、足が重くなったといって仰向けに寝られた。毒を渡した男があの方に触って、足から足へと調べ、足を強く押してわかりますか、と尋ねた。あの方は、わからない、とおっしゃった。その次にその男は、腰から上へ触っていって、身体が冷えて硬くなってゆくのを教えた。あの方自身も触れてみて、これが心臓まで来たら往生するのだ、とおっしゃった。
もうかれこれ、下半身が冷たくなったとき、かけてある布をとっておっしゃるには、『おいクリトン、アスクレピオスさまに鶏をあげなきゃならん。あげてくれ、忘れずに な』
『そりゃ、あげるが、どうだ、ほかに何かいうことはない か』
クリトンがそう尋ねても、もう返事はなく、しばらくして痙攣が来た。ふたたび布をかぶせたときには、あの方の眼は動かなくなっていた」
使命感が強かったのは『武士道』の著者、新渡戸稲造も同じです。
一応軽快して退院し、ヴィクトリアで静養し、九月十一日にはドライヴに出かけたほどであったが、その日からまた激しい腹痛を起し、ジュピリー病院に入院した。やがてスプーンも持てないほど衰弱したが、それでも鉛筆で、昭和五年以来「東京日日」のために筆を執っていた『感想文』を、死の三日前まで書きつづけた。
十月十六日午前、手術した。開腹してみてはじめて出血性膵臓炎であることが判明した。手術後、彼はしきりに「足が痛い痛い」と訴え、またまどろみ、ときどき目ざめて手真似で話をしたが、夜にはいって容態急変し、午後八時三十五分に永眠した。病院をつつむオーク欄の森には、冷たい夜の雨がしずかに降っていた。
遺言らしいものはなかったが、重態に陥ってから書いた紙片を判読すると、それはどうやら「外国人の妻(アメリカ人、メリー・エルキントン、日本名万里子)を一人あとに残してゆくが、よろしく頼む」という意味らしかった。
教育者は使命感が強いとすると、哲学者は興味や好奇心の比重が大きい。西田幾多郎らしい最期のエピソードには思わず微笑んでしまいます。
昭和二十年五月十八日、西田を訪ねたカトリック哲学者松本正夫に、西田は「時に戦争はいつ終るかね」と訊き、また「天皇制は、どうなると思うかね」と訊いた。むろん敗戦を前提としての問いであった。松本が「ハイマート・ベウストザイン(郷土意識)としてなら残るかも知れませんね」と答えると、西田は膝をたたいて、「君、それだよそれだよ」と、うなずき「天皇制は、一地方国家の郷土意識に過ぎなくなるのだ」といった。村の鎮守の神様というところか。
一週間後、彼は病床についた。腎疾患であった。死ぬ少し前に、彼は夫人に墨をすらせ、ゲーテの「旅人の夜の歌」を自分なりに訳したものを紙に書いた。
「見はるかす山の頂、梢には風も動かず、鳥も鳴かず、 まてしばし、やがて汝も休らん」
原文は濁点なく、九行に分けて書いてある。
その後すぐに意識不明となり、これが西田の絶筆となった。六月七日午前四時に死去したが、医者も間に合わず、見守っていたのは妻と娘の二人だけであった。直接の死因は尿毒症であった。
宮沢賢治は映画『銀河鉄道の父』でもその生涯が描かれています。最期の最後まで人のために尽くした彼の姿には頭が上がりません。
九月二十日の朝、一人の農夫が訪ねて来て、肥料のことについての相談をした。そのあと賢治は急に呼吸が苦しくなり、医者が呼ばれて急性肺炎との診断を受けた。
その夕方、またその百姓がやって来た。家人は面会をことわったが、「ちょっとでええがら」と、ねばって帰らないので、やさしい性質の賢治は、「ンだしか」と、病床から出て、着物を着がえて会った。
一時間ほど話していると、急に賢治の声がかすれ、唇が紫色になって来たので、家人がやっとその男を追い返した。 賢治にとって死神となったこの無神経な百姓の名はいまだに知られていない。おそらく純朴な人々の思いやりから不明ということにされたのであろう。
その男が帰ると、賢治は苦しそうに病床に戻り、
「今夜は電灯が暗いなあ」
と、いった。
九月二十一日ひる近く、母からもらった土瓶の水をうまそうにのみ、オキシフルにひたした消毒綿で全身をふいてもらい、眠るように眼をとじたが、やがて母が部屋を出ようとして、もういちどのぞきこむと、呼吸がおかしくなっているのに気がついた。しかし意識ははっきりしていて、国訳法華経の印刷や頒布のことについて遺言した(彼は法華経の信者であった)。まもなく午後一時三十分、その呼吸がとまった。
ちなみに「今夜は電灯が暗いなあ」という言葉は、ただ部屋の明るさのことではないと僕は感じています。
日蓮宗を信仰し、法華経を重んじていた宮沢賢治にとって、光は法灯であり真実を意味するものであったと思うからです。
生前に唯一出版された詩集『春と修羅』の冒頭には次のように書かれています。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
法の光は永遠ですが、電灯には短い寿命があります。だから電灯を「わたし」という個を表していました。「今夜は電灯が暗いなあ」という言葉には、自分がもうすぐ事切れてしまうことと、もうすぐ切れてしまう照明をかけて詩的に表現していたのではないかと思うのです。
そう考えると、宮沢賢治は最期の最後まで詩人であったと言えます。
また、生前に救いがあったかなかったかにもよるかもしれませんが、死の際には光をもとめたくなるものなのかもしれません。ゲーテの最期は、部屋の明かりがもっと入るように言ったそうですが、もしかするとこれも何かの比喩だったのかもしれません。
鷗外の『ギョオテ伝』にいう。
「一八三二年三月にギヨオテは感冒して、十六日に床に就いた。日記の最後の一行には「終日不快にて臥』と書いてある。フォオゲルが療治して一旦起きたが、十九日から二十日に掛けての夜寒に病気が重くなって、二十二日午後十一時三十分に腕付の椅子の左の隅に身を倚せ掛けた儘で亡くなった。よめに『握手をしよう』と云ったのと、家隷に『窓を一つ開けてくれ。明かりがもっと入るように』と云ったのとが、最後の詞である。『も少し明かりを』と云う象徴的の語は此に本づいている。死に瀕した時、右の示指で空中に文字を書いた。それはWの字らしかった」
教育者、哲学者、文筆家など、さまざまな死に際がありますが、なかでも詩人の死は特に美しいと感じてしまうのは僕だけでしょうか。
シェイクスピアの最期にはやはり美を感じますし、ユーモアも忘れていません。
最初の伝記作者ロリは、一七〇九年に書いた著書の中で、「彼の生涯の後期は、良識ある人々がすべてそうあれかしと願うように、安楽な隠居生活、友人との談笑のうちに日を送った」と断言している。
彼は死の三年前、投資のための邸などを買っている。こういう大文豪もあるのである。
そして一六一六年四月二十三日、彼は妻や娘に財産分配についての詳細な遺言状を残して死んだ。死因は、当時流行した熱病によるものとも、何かの持病が急に悪化したものともいわれ、明らかでない。
日本では元和二年、徳川家康が死んだ年であった。
彼の遺体はストラドフォード教会内に葬られ、その墓石にはシェクスピア自身が選んだ次の四行が刻まれている。
「よき友よ、イエスのために、ここに葬られし
わが遺骸を掘り返すことなかれ
この石に触れぬ者に祝福
わが骨を動かす者に呪いあれ」
この墓碑銘は、彼が遺言の遺産の分配で、妻には「三番目のよき寝台」しか与えていない事実とともに、彼がのちに妻が同じ場所に葬られることを防禦したしるしとも考えられ、彼が妻のアンと不和であったという説を生んでいる。
ちなみにこの墓碑に書かれている文言は、僕の祖父の遺品で額に入れて飾ってあったのですが、つい最近まで何が書いてあるのか、これが一体なんなのか分かりませんでした。最近、友人が教えてくれたおかげで、これがシェイクスピアの墓碑に書かれているものの写しだと分かりました。
死んでなお謎を残したり、ユーモラスに皮肉ったり、こういう死に方は憧れます(笑)。
3.死への親しみ
以前にも触れたことがある国連の関連期間が毎年発表している「幸福度ランキング」は、その指標を当てにする必要がないことを言いました。
日本は2023年時点で47位。
幸福度の指標はいかにして今の生活に満足しているかという指標であって、死については当然触れられていません。根源的な問いかけが抜け落ちているのではないか。
死と親しめるか?
言い方が適切かは分かりませんが、死に対しての覚悟や見方を確立することが必要だと思うのです。
美しく死ぬ、詩的な死生観は手本の一つになるのではないでしょうか。
つい先月、11月13日に亡くなった谷川俊太郎。言葉遊び歌をはじめ、いくつか絵本も読んだことがあって、詩集も読みました。やわらかくてあたたかい言葉のなかに、厳しさもある詩が印象的です。教科書にも載っているそうですが、僕は学生の頃はそんなことには興味なかったので全く知りません。
『手紙』のあとがきに
「詩が死に親しむことで生へ向かうものであることを、少しずつ私は信じ始めている」
と書かれていて、「死に親しむ」という言葉には胸を打たれました。
死について書かれた詩もいくつかあって、印象に残っているものをご紹介します。
死んだ男の残したものは
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来る明日
他には何も残っていない
他には何も残っていない
死をネガティブにだけ受け止めるのではなく、死と親しむことで生に向かい、光がさしてくる。光のなかだけでは光は光ではなく、闇を照らすからこそ光なのでしょう。
死と親しむことこそ真に生きることだという感覚は、『葉隠』の解説である『葉隠入門』で三島由紀夫も触れています。
われわれは死を考えることがいやなのである。死から何か有効な成分を引き出して、それを自分に役立てようとすることがいやなのである。われわれは、明るい目標、前向きの目標、生の目標に対して、いつも目を向けていようとする。そして、死がわれわれの生活をじょじょにむしばんていく力に対しては、なるたけふれないでいたいと思っている。このことは、合理主義的人文主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へ人間の目を向けさせるという機能を営みながら、かえって人間の死の問題を意識の表面から拭い去り、ますます深く潜在意識の闇へ押し込めて、それによる抑圧から、死の衝動をいよいよ危険な、いよいよ爆発力を内功させたものに化してゆく過程を示している。死を意識の表へ連れ出すということこそ、精神衛生の大切な要素だということが閉却されているのである。
毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだということを「葉隠」は主張している。われわれはきょう死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるを得ない。『葉隠入門』三島由紀夫
自分自身の経験の話で恐縮ですが、何事も中途半端にして情熱を注げぬままにとりあえずこなしていただけの時期を経て、あるきっかけでとにかく何事にも全身全霊をかけて挑むようになった時、それが道半ばであったとしても非常な充実感が生まれ、いつ死んでも構わないと思えるようになりました。
後悔しないからいつ死んでも構わないのではなく、今できることを精一杯やっていると、たとえ今日死のうが十年後に死のうが今これ以上にはできないという自負があり、それと同時に、百歳まで生きられたとして、死ぬ時に後悔は残る。これ以上も以下もない「今」を生ききっているからこそ、いつか必ずやってくる死を受け入れることができるのです。
今日死ぬかもしれないと自暴自棄になるのではなく、ずっと遠くを目指しながらも足元には気をつけて歩くように、今この瞬間に集中しながらも、数十年先を見据えて生きる、これが『葉隠』でも教えているところなのだと理解しています。
アメリカの詩人、エミリー・ディキンソンが残した詩を二つ紹介します。
Success is counted sweetest
By those who ne’er succeed.
To comprehend a nectar
Requires sorest need.成功をもっとも甘美に思うのは
成功することのけっしてない人たち。
甘露の味を知るには
激しい渇きがなければならぬ。
Water, is taught by thirst.
Land ——by the Oceans passed.
Transport —— by throe ——
Peace —— by its battles told ——
Love, by Memorial Mold ——
Birds, by the Snow.水は、のどの渇きが教えてくれる。
陸地は——はるばる通ってきた海が。
歓喜は——苦痛が——
平和は——戦いの物語が——
愛は、形見の品が——
小鳥は、雪が。
目的を達することではなく、プロセスにこそ醍醐味がある。幸福は不幸が教えてくれる。そんなふうに語りかけてくれています。
そして究極的には、生は死が教えてくれるのです。
また、『葉隠』には次のようなことも書かれています。
人間一生真に纔(わづか)の事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚(おろか)なることなり。この事は、悪しく聞いて害になる事故、若き衆などへ終(つひ)に語らぬ奥の手なり。
好きなことや興味あることでなければ当然全力を注ぐことはできません。自分の好きなことを思いっきりやることは、死と親しむことと表裏一体なのかもしれません。
武士道には、儒教の教えをはじめ、仏教と神道の価値観も詰め込まれています。儒教の教えは、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信、そして仁、義、礼、智、信の五倫と五常が主な道徳的観念を形成しています。
ただ、中国から伝播した儒教の教えを日本人が学んだというより、素養として元から持っていた精神に、具体化された言葉で教えとして入ってきたという方が正しいかもしれません。
仏教については『武士道』に次の通り書かれています。
危難や惨禍に際して、
常に心を平静に保つことであり、
性に執着せず、死と親しむことであった。その方法は座禅と瞑想であり、
その目的は私の理解するかぎりでいえば、
あらゆる現象の根底にある原理について、
究極においては「絶対」そのものを悟り、
その「絶対」と自分を調和させることである。
瞑想によって絶対を悟ることが、武士道の完成であり、いついかなる時も心の平静を保つことに繋がる。どの段階まで悟れたかより、自分自身が求める平静を瞑想で見つけられたならそれで良いのでしょうね。
神道が与えた影響に関しても抜粋しましょう。
すなわち鏡は人間の心を表している。
心が完全に平静で澄んでいれば、
そこに「神」の姿を見ることができる。
それゆえに人は社殿の前に立って参拝するとき、
おのれ自身の姿を鏡の中に見るのである。
ここまで来れば、なかなかの賢者ですね。
死と親しみ、絶対と調和し、己に神を見るということは、すなわち霊魂の不滅を知ることであり、だからこそ死を恐れる必要がないと悟ることができる。そうすることでおのずを人生が幸福に包まれていく。
その裏付けというわけではないですが、最後に井上円了の言葉を拝借して締めくくりたいと思います。
霊魂の不滅を悟れば人生は幸福、愉快ばかりで過ごせる。
拙者などが茅屋破窓の下に眠りて、貧苦多患の境遇にありながら、毎日毎日満腔の愉快をもって日を送るのは、全くこの天地、この万物の不可思議なることを悟りて、朝夕その味を心中に感ずるからであります。世間にて楽を買うには莫大の金がいるけれども、この拙者の楽だけは一文半銭もいらずして、しかもその楽は、金で買い入れたる楽に百倍も千倍もまさりております。
『霊魂不滅論』井上円了
今回は引用文ばかりになりましたが、先人たちの言葉を借りる方が重みも説得力もありますし、実際の死に際から学べることも多いと思った次第です。
最後までお読みいただきありがとうございました。