目次
1.神話とヘビ
様々な神話で蛇は登場します。すべて挙げるのは大変なので諦めて、いくつか神話を調べてみると蛇はけっこう出てきます。あるときは普通の蛇として、あるときは異形の怪物として。狡猾さやしつこさに目が行きがちですが、各地の神話や信仰において通じるところは「復活と再生」といったところでしょうか。
また、蛇(怪物)を退治する話も多く、敵対する時はおそらく自然の脅威や恐ろしさを表していて、それが治まった時には象徴として祀り崇める傾向があるように見受けられます。象徴として信仰の対象となる場合は、プラスな面に重点が置かれているような感じですね。
神話でヘビといえば、聖書の創世記に出てくる知恵の実を食べさせる物語が思い浮かびますが、皆さんは何を連想するでしょうか?
創世記から引用して、あらすじを確認してみましょう。
夕となり、また朝となった。第五日である。
神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
こうして天と地と、その万象とが完成した。
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、
地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。
その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、
その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。
第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。
主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、/彼はあなたを治めるであろう」。
更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。
主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。『旧約聖書』創世記
聖書はいくつかの伝承を組み合わせたものであるとされていて、そのおかげでJ典、E典、D典、P典……といった複数の説に分かれています。引用箇所では、土から男女がすでにつくられていたのか、アダムの肋からエバが生まれたのかは論点の一つとなっています。
我が国の記紀も同じような編纂過程を経ているため、神話の成り立ちにおいて、諸説を織り混ぜて当時の権力者にとって都合の良いように作為的に成立するものであると考えられます。
さておき、この創世記のシーンでは何か頭に引っ掛かるものがあって釈然としません。なぜ蛇はエバに知恵の実を食べるようにそそのかしたのか、食べてはいけないのになぜ神はすぐ手の届くところに知恵の実を成らせたのか。実際のところは分かりませんが、少なくとも知恵の実によって二人は「人間らしさ」を得ました。羞恥心がなければ、獣と変わらない。とすれば、ここでアダムとエバは動物の「ヒト」から「人」になったと言えるでしょう。
そんな人間らしさを吉と取るのであれば、蛇は良き導き手となり、凶と取るならば蛇は狡猾で災いをもたらす生物となります。本当のところはどうなんでしょうね。
毎年、年末になると翌年の十二支についていつも愛読しているのは南方熊楠の『十二支考』。十二支の動物が取り上げられている話をあちこちの民話から引っ張り出してまとめられています。ものすごい情報量で、これほどの話をまとめるのにいったい何冊の本から引用しているのかと考えるとゾッとするほど。まったく頭が上がりません。
最初の方には、ヘビ、オロチ、クチナワ、ウワバミなどの呼称の違いから考察されています。
そしてミヅチと呼ばれる所以。
さらに、カガチという呼び名について。
『十二支考』には出ていませんでしたが、ニシキヘビは英語でパイソン。パイソンはもともとラテン語でPhythonと書き、ギリシャ神話に出てくる蛇の怪物ピュートーンに通じています。
蛇の歴史は古く、語源を辿るだけでもかなり楽しめます。
蛇の字は虫編ですが、もともとムシというのは地面を這ったりそのへんを飛んだりする小さな生物の総称。
蝮(マムシ)も虫編が付いていますが、もともと虫の字は蛇の象形です。細かい虫の方は「蟲」と書いて区別されていました。蟲は「チュウ」と読みますが、虫はチュウとは読まず「キ」という音読みでした。蟲と虫の字は時代を経て簡略化されて一つになったのですが、本来「虫」は蛇のことだったのです。
蛇の和製の呼び名には、ヘミ、ハミ、ムシ、ミツチ、カガチ、オロチなどがあり、「ミ」や「チ」の音がその特徴となっていることが分かります。注目したいのは、カガチの「カカ」は古語で蛇を意味しているということ。その話はまた後ほど。
神話をみると各地で蛇信仰があったことが伺えますが、有史以前のもっと古く、縄文時代にも蛇を信仰していたであろう形跡が残っています。
去年、長野にある「茅野市尖石縄文考古館」へ訪れて展示されている縄文土器を見学しました。縄目模様の土器よりも、蛇を模った土器や火焔模様が多かったことが印象的でした。聞くところによると火焔土器の火焔は、実は上下逆さまで水を表しているのだとか。となると水の主ミヅチとも関わりがあったのでしょうか。
いずれにせよ、5000年以上前から蛇は信仰の対象となっていたのです。
蛇が男性のシンボルとされている神話もあって、縄文時代にも男根を模ったようなものが作られています。
また、縄文土器には、作ってから意図的に破壊していた形跡が残っており、破壊と再生に対する祈りが行われていたとされていますが、蛇はまさにその象徴であったのかもしれません。
縄文時代の蛇信仰は、仏教と結びつくことで新たな信仰を生みます。
インドではナーガはコブラのことを指し、仏典にある竜王とは蛇使いのような存在でした。仏教がコブラが生息していない中国へ伝えられると、ナーガは空想の動物である龍と同一視されるようになり、蛇は龍へと昇華していきます。
それから日本へ仏教が伝来した時には、土着の蛇信仰、インドのナーガ、中国の伝説の龍とがごちゃまぜになってしまったのでしょう。白蛇の化身とされる弁天さんも加えて信仰されるようになりました。その結果、白蛇辯才天、九頭龍辯才天、八大龍王辯才天など、合体ロボのような名前の弁天さんがあちこちで祀られるようになったのでしょう。一説によると、蛇は弁天さんの使者で、白蛇は弁天さんの化身なんだとか。
4年前に弁天さんの絵を描いて、御守りカードにして祈祷もしてあるので、ぜひ買ってくださいね。宣伝失礼(笑)。
ちなみに弁天さんのご縁日は「巳の日」です。
え? それがいつかわからないって?
こちらのオリジナル卓上カレンダーにすべて載っています(笑)。
あ、これは宣伝ではないですよ。売り切れてなくなっちゃいましたので。ご興味あればまた来年どうぞ。
気づけばここ数年は出雲大社へ毎年お詣りしています。祀られているのは龍蛇神。蛇の神様です。
龍蛇神の正体はセグロウミヘビだと言われていますが、それは後付けではないかと思います。
奈良の大神神社へもよくお詣りましますが、主祭神の三輪明神こと大物主は蛇の神様。
ところで、大物主の子孫(日本書紀では子)にオオタタネコという人物がいます。有名な氏族は何かと蛇に関連していそうなのですが、調べはじめると沼にハマるので今回は深追いしませんが、つい先日、息子が怪我をしたので病院へ連れて行ったときのこと。息子の一つ前に呼ばれた方の名前が「おおたたねこ」さんでした。大物主の子孫でたー!!という感じで驚いて一人テンションが上がっていました(笑)。
ちなみに、神社にある「しめ縄」は蛇の交尾する姿を神聖視して模ったもの。しめ縄の下をくぐる時に思い出してくださいね。上で蛇が交尾しているんですよ。
お正月に飾る鏡もちは、もともと蛇がとぐろを巻く姿を模しているそうです。
先ほど述べたように、古語でカカは蛇の意味ですから、鏡もちではなくて実は「カガ身もち」なんです。
カカという言葉の発音の変化を辿っていくと興味深いです。
お母さんのことを意味する「カカ」については江戸時代に武家の妻や母を御方(おかた)様と呼んでいたことが由来。
うちの家では、妻のことを「かーか」、ぼくのことを「とーと」と息子に呼ばれていまして、カカは蛇の意味ですから蛇神で、トートは顔が鳥のトート神ということになるなと妄想しています。(悪意はないです笑)
「うちの家」って話し言葉で違和感なく使いますが、「頭痛が痛い」みたいに言葉が二重になってしまっています。「髪の毛」も違和感なく定着していますが、「髪」に毛の意味がありますから、これも本当はおかしいですよね。
次にカカではなく母(ハハ)という発音。ハ行の「H」の子音は古代にはなくて、もともとは「P」でした。時代を経て平安時代に「F」の音に変わり、江戸時代の後半か鎖国を終えた頃からようやく「H」の発音になりました。
中国語は古代から日本に入ってきて漢字が使用されていますが、上海(シャンハイ)、香港(ホンコン)の上(ハイ)、香(ホン)などは、適当な日本語での発音がなかったため、海=カイ、香=コンというように「K」の子音が当てられました。
ふだん読誦する「般若心経」においても、タイトルの摩訶般若波羅蜜多心経の「摩訶(マカ)」は本来サンスクリットでmahāと発音し、中国語でもマハです。最後の「薩婆訶(ソワカ)」もsvāhāで、同じく「カ」ではなく「ハ」の発音が本来です。
「F」の子音については、中世になって表れるラテン語の記録をみると、日本はnifon、人はfito、博多はfacataなど、当時のファ行音が「F」で表されており、「H」の発音ではなかったことが分かります。
こういった変化は言語学における「唇音退化」という現象で、スペイン語やハワイ語でも起こっており、日本語の発音に限ったものではありません。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」と唱えるお地蔵さんの真言もしかり。
もとのサンスクリットでは「Oṃ ha ha ha vismaye svāhā」と発音します。
ha ha haの部分は笑い声を表しているとされてます。「はっはっはー!」という笑い声なら自然ですが、「かっかっかー!」だと、悪代官? アシュラマン(キン肉マン)? カン十郎(ワンピース)? のような個性的な感じになってしまいますね……。
「カガミもち」の話に戻りまして、本来の鏡もちの役割は年神様が宿る依代です。
年神様の代理人である家長が、そのお餅を家族に分け与えることで健康や豊作にあやかろうとする風習で、その分け前のことを「歳魂(としだま)」と呼びました。これがお年玉の由来。
今は簡略化された鏡もちしかあまり見る機会がないですし、スーパーで売っているのはもはや餅ですらないプラスチックですが、本来は餅と橙、串柿でワンセットでした。これらはそれぞれ八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣の「三種の神器」を表しているとされています。
ちなみに三種の神器は、日像鏡、月像の首飾り、武神の剣という同じようなものがシュメール神話にも出てきます。やはり日本とシュメールには深い関わりがあるのでしょう。日ユ同祖論や日ユ同化論など、いろいろと議論の分かれるところではありますが、遠く離れた地で相通ずる文化が育まれていたことは確かです。
前述の創世記についても、神に似せてつくられたのが人間だという箇所は、シュメール神話に登場する天と地、人間を創造したアヌンナキという神の存在が重なります。
アヌンナキは太陽系10番目の惑星と言われるニビルからやってきた宇宙人で、地球に金を採掘するためにやってきて、労働者として人間を作った科学者であるという話もあります。そのへんはよく分かりません(笑)。
ただ、聖書にもシュメール神話にも似たところがあり、また日本神話にも似ているところがいくつもあるのは事実。今年は神話をもっと探究してみたいなと思いつつ、底なしの沼なので手強いです。
三種の神器が日本とシュメールで通じているだけでなく、スサノオによるヤマタノオロチ退治のシーンも同じようなストーリーです。
7つの頭を持つムシュマッヘという蛇の怪物をニヌルタという神が退治し、そこから出てくるのが武神の剣。
8つ首のヤマタノオロチを退治して草薙の剣を手にいれるスサノオの話とほとんど同じですね。
草薙のナギは、これまた蛇を意味しています。ハリー・ポッターに登場するナギニという名の蛇は、インド神話のナギニーがモチーフになっているとも言われています。ナギニーは水と豊穣の神とされており、体は蛇の尾とコブラの首で、人の顔をしています。それに対してナーガは男神を表し、後に仏教では竜王となりました。、縄文の火焔土器が実は水を表しているとすると、蛇モチーフの土器も含めて、水と豊穣の象徴が蛇であったインド神話とも共通点が出てきますね。
また、ギリシャ神話における英雄ヘラクレスが、9つの頭を持つヒュドラを退治する物語も似ています。
古代イスラエル近辺で起こった何かしらの事実が方々で語り継がれて神話となったのか、あるいは同じ元ネタから派生して神話が作られたのか、どちらかという結論になりそうです。
2.乙巳の年
時には悪役として、時には信仰のシンボルとしての二面性を持つ蛇。
復活と再生の象徴でありながら、神話では破壊の怪物。
健康や医学など人の役に立つ知恵もあれば、人間を陥れる知恵もある。みんなが平和で豊かに暮らせるように豊穣を祈るのに対して、権力をもって人を支配しようとする影の部分もある。まさに陰陽の両側面を持っている象徴こそ蛇なのでしょうか。
2025年は、十干十二支における乙巳(きのとみ)の年。
乙巳はどんな年なんだろうと、思いを馳せて最初に浮かぶのは「乙巳の変」。645年に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害し、政治改革が行われた大化の改新です。ムシゴロシって語呂合わせで暗記したアレ。
他に歴史の出来事はパッと浮かばず、これだけで変革の年と捉えるのはどうかとも思いますので別の側面から考えてみます。
乙巳の性質を陰陽五行で紐解くと、「乙(きのと)」は陰の木、「巳」は陰の火の気。
陰の木「乙」は、柔らかくしなやかな木のエネルギーを持ち、細やかで調整力に優れ、芽吹いたばかりの植物や小さな草花を象徴し、大きな成長に向けて準備する段階を示しています。また、周囲との調和を重んじる性質があり、目立つ行動よりも内面的な成熟や基盤作りを重視していくことが求められます。
陰の火「巳」は、陽の火が激しい情熱や爆発的な力を象徴するのに対し、陰の火は穏やかで持続的な情熱を表しています。例としては、内面の深い思索や静かな決意など。陽の火のように熱く燃え上がるのではなく、優しく周囲を温める火の気で、心の癒しや安らぎを与える力があるとされています。内面の成長や変化を促し、内面から自然に起こる変容を指します。
乙と巳は相性の関係にあり、互いの性質は相乗効果的に働く「継続と調和の年」と解釈しました。九星気学とか詳しくないので知らんけど。
こういった性質は盲信する必要はないですが、あえて反するような動きをしたいとも思いませんから、今年の抱負や目標を立てる時に参考にすると良いですね。
ちなみに十二支はもともとは植物の成長過程を表しており、その内容は次の通りです。
子:滋(じ) :新しい生命が種子から誕生する状態。
丑:紐(ちゅう):芽が種子の内部から出ようとする状態
寅:演(えん) :草木が土から芽をだす状態
卯:茂(も) :草木が成長し、少し地面を覆う状態
辰:伸(しん) :草木がよく育ち形が整った状態
巳:巳(し) :万物が繁盛の極みになった状態・草木が成長しきった状態
午:忤(ご) :万物が最盛期を終え成長が止まり、衰え始める状態
未:味(び) :草木が成熟して実がなりはじめる状態
申:身(しん) :実が成熟して大きくなっていく状態
酉:老(ろう) :実が成熟し熟した状態
戌:脱(だつ) :実が滅びゆく状態・枯れて土に帰り、次の芽を守る姿の状態
亥:核(かく) :万物の生命力が凋落し、種子に生命力を閉じ込められた状態
巳は、万物が繁盛の極みになった状態・草木が成長しきった状態。陰極まって陽に転ずる年と言えるかもしれません。大化の改新のような大きな変革が起こるのは稀な例だとするなら、目に見えない変革が起こる転換点のように思えてきます。
前回、シンギュラリティーを話題にしましたが、目に見えないところで静かに大きな転換が起こっている、そんな年になるのかも……。
参考までに、陰陽五行での十干十二支の分類を下表にまとめ、いくつか性質を加えてみました。十干十二支と陰陽五行を照らし合わせやすくなりました?
3.抱負と振り返り
いつからか、毎年テーマを四字熟語で決めていまして、今年は「和衷協同」にしました。
一人で完結することよりも、人と一緒に何かすることを中心にする年にできたらと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
ちなみに昨年は、穏やかにかつ謙虚でありたいと願って「温良恭倹」をテーマにしていました。
主に家の中で穏やかにいられるように心がけていたつもりだったのですが、正直あんまりできませんでした(笑)。ですから、今年は昨年のテーマも継続して意識していきたいと思います。
新年に抱負や目標を立てる人は多いと思いますが、2月には大体の人が忘れています(笑)。
未来に向かって思い通りにくように努力することも大事ですが、反省すること、過去を振り返ることも同じくらい大切。叶ったことも思い通りにならなかったことも受け入れることで、感謝の念が自然と湧いてくるからです。
未来への希望が今の幸福感につながることもありますが、今の幸福をつくるためには過去への感謝が土台として必要ではありませんか。
また、死ぬ時には、未来への希望よりこれまでへの感謝の気持ちが幸福な人生であったかどうかを決定するように、生まれてすぐは未来への希望しかありません。人生の進み度合いによって、「未来への希望」から「過去への感謝」へとシフトしていくことは必然なのでしょう。
前に読んだ何かの本で、「心は出家、体は在家」と言っている人がありました。
出家するということは本来、世俗を捨てて何も持たずに修行者となること。現代でそんなことをすると生活ができません。だから僧侶であっても、一部のチベット僧のような方を除いて経済活動をしています。それが駄目だというわけではなく、それなら皆んなができる、皆んなが救われる、まさに大乗的。全員が本来の出家をしてしまうと人類はすぐに滅びてしまいます。思想や精神は修行者のごとく修養し、物理的には仕事をしてお金を稼いで家族を養う、これなら人類全員がやっても問題ありません。
同じように考えていたから「心は出家、体は在家」という言葉に妙な納得感があって、言い得て妙だなと思いました。
ぼくは、もう一つ付け足して「心は出家、体は在家、魂は家出」。意味は悟ってください(笑)。
物理的にはいろんな縛りがあったとしても、根本は何にも囚われずに自由に遊ぶことを求めており、またそうすることが結果的に仕事することでもあり、心の修行であるとも思っています。
巳年だけに蛇足ですが、遊び心のお手本のような敬愛する狂歌師、太田南畝が今年の大河ドラマに登場するようで、楽しみにしています。