目次
1.ゼロ地点の感性
はい、では教科書の9ページを開いてください。
失礼しました(笑)。
『むすびのこころ』では初心の話は書いてませんでしたが、『風姿花伝』の、「まことの花」「時分の花」について少しだけ触れています。同じ世阿弥の教えで最も有名なのは「初心忘るべからず」でしょう。
実際は『風姿花伝』には次のようにあります。
「是非の初心忘るべからず」
「時々の初心忘るべからず」
「老後の初心忘るべからず」
要するに、「”いつも”初心を忘れないでいなさい」ってこと。
初心というのは初めた頃の気持ちと解釈されていますが、昔、ある人からこう教えてもらいました。
「初心を忘れないようにしても人は忘れてしまう。それは誰にとっても難しい。だから思い出すんじゃなくて、”今が最初である”という気持ちに立ち返ることが本当の意味なんですよ」と。
そんな話を聞いて、妙に納得できました。確かに、何事も初めた頃のことなんてほとんど覚えてません。でも、今が最初なんだという気持ちには意識すればなれますからね。
初めた頃はもちろん、今が初心であり、未来も常に初心なのです。
そう解釈すると、世阿弥が是非(若いとき)、時々(歳を積み重ねていく過程)、老後(未来)のそれぞれにおいて「初心忘るべからず」と三つに分けて説いた理由が分かる気がします。
いつの時も今がスタート、ゼロ地点であると意識して何事にも取り組めたなら成長の可能性は無限大ですね。
ゼロ地点は、「何事も子どものように感じる感性を忘れない」ということに繋がります。
私たちは大人になるにつれて新鮮な気持ちを忘れてしまいがちですが、今が初心、ゼロの地点であると捉え直すことができたなら、世界はワクワクに満ちてきます。
環境問題の提唱者として知られる生物学者で文筆家のレイチェル・カーソンは、その感性を「センス・オブ・ワンダー」と名付けました。
『センス・オブ・ワンダー』自体は優しい文章で短い内容なので、ぜひ読んでみてください。
あんまり役には立たない『むすびのこころ』の100倍は役に立ちます(笑)。
ちなみに、環境問題について彼女の思想を知りたければ『沈黙の春』を読むと良いでしょう。
上遠恵子氏の訳によれば、センス・オブ・ワンダーとは「神秘さや不思議さに目を見はる感性」。
この感性は幸福になる秘訣であり、倦怠感や人生に幻滅したり、自然から遠ざかってつまらない人工的なものに夢中になったりしてしまっている状態から解放されるための解毒剤であるとも言います。
本文から気になった箇所をいくつか抜粋してみました。(※右白字のタイトルは引用ではありません)
美しいものを美しいと感じる感覚。言うなれば「無私の情」であり、岡潔のいう「真情(まごころ)」に通じています。
それについては後ほど。
スウェーデンの海洋学者オットー・ペテルソンは、死の恐怖よりも好奇心の方が勝っていたらしいですね。
この気持ち、非常によく分かります。
以前から「死後どうなるのか」についてあれこれ調べ、自分なりに「死後はきっとこうなるのだろう」というのを考えて、『むすびのこころ』にも第5番「死後の行方」の章で書いていますが、結局のところ、死後は「死んでみないと分からない」という結論で納得するしかありません。
だから「早く死んでみたい」という気持ちがあります(笑)。
ただ、そのために自ら早く死のうとは思いませんよ。どうせ逃げたって遅かれ早かれ「いつか必ず死ねる」わけですから、その時まで楽しみにとっておきます。
そんなふうに思っているので、オットー・ペテルソンの言葉に強く共感した次第。
2.無私の情
親鸞は『歎異抄』で「念仏には無義をもって義とす」と著しました。
阿弥陀仏に救われた人の称える他力の念仏は、一切の自力のはからいを離れているという意味。
思考や欲望などの人為を離れた境地で、これが本当の念仏の意義であり「お礼の念仏」とも言われています。前述したゼロ地点の感性も、何も無いからこそ全てに感動でき、自ずと感謝が湧いてくるという意味において、同じような状態だと考えられます。
分かるようで分からない、聞けば聞くほど頭がこんがらがると評判の浄土真宗の教えですが、知識や感情、競争心や利益をもとめる欲望、すなわち「我(自力)」を離れたところに阿弥陀仏という働き(他力)が呼応するということなのでしょう。
阿弥陀仏はずーーーーーーーっとBluetoothでペアリングしようとしてるけど、こっち側が「我」でガードしてしまってるから接続できてない。センス・オブ・ワンダーに立ち返れば、ちゃんとペアリングできるのに。
阿弥陀仏でなくても、天でも道でも神様でもなんでも良いです。とにかくそこにずっと流れている大いなる働きにペアリングしてこそ、真に生きていると言えるのではないでしょうか。
幸福の指標を「幸福度」とか「Well-being(ウェルビーイング)」とかで測ろうとするのがそもそも間違いで、「GDP」なんてもってのほか。べつに測ったら良いんですが、本当の幸福を自分が味わうためにそんなものは全く必要ありません。
そもそも「測る」行為自体、物質世界に時折り必要なプロセスの一つであって、真実の世界にはない概念です。
Well-beingは、よく生きるための概念。16世紀のイタリア語「健康的な・幸せな」を意味する「benessere(ベネッセレ)」が語源で、ラテン語の「bene=よく」と「esse=生きる」を合わせた言葉。
活用することや内容を否定するつもりはありませんが、我欲の世界における基準であるということを理解した上で用いるべきでしょう。
心について考えると、いつも頭に浮かぶのは岡潔の存在。
「幸福とは知・情・意のうち、情が幸福なのだ」と言っています。まさにウェルビーイングは知とか意の幸福でしょう。
知・情・意は、西洋の心と東洋の心で相反する捉え方をします。
西洋における知・情・意は、それぞれ知識、感情、競争心。
東洋における知・情・意は、智慧、情緒、向上心。
この話をし出すと長くなってしまうのでここまでにしておきますが、これら東洋と西洋の心のさらに奥に日本人にだけ流れている「真情(まごころ)」を発見したと岡は言っています。
ところで最近、破竹の勢いで進められているトランプ大統領の政策は、新聞でその話題を見ない日がないほど。
その数ある政策のうち
・性別は男性と女性の二つだけであると大統領令に署名したこと
・税金の浪費を根絶すべく創設した政府効率化省(DOGE)
の2つだけは、個人的に賛成しています。
トランスジェンダーの方々を批判するつもりはないけれど、やはり人間の道理(生殖活動を行なって種を保存していくという根本的なもの)には反していると言わざるを得ないため、声を大にして公に認めるものではないと思います。また、イーロン・マスク氏がどうとかは分かりませんが、税金の無駄遣いを排除していくことには大賛成です。そして、何事もよく分からないままうやむやにしてしまう日本政府に比べれば、善悪はさておき何事もハッキリ断言する彼の姿勢はスカッとします。
ただ、その他の多くの政策に関しては、西洋的な知識、感情、競争心、自分達さえ良ければそれで良いという我欲に溺れた考えであり、まったく賛同できません。
欲界に生きていると「もっともっと!」と、どこまで求めようとも満ち足りることがないから、その欲に拍車をかけていくことでしか自己を保てないのでしょうね。
話を戻して、岡潔のいう「真情(まごころ)」を持つのは日本人だけではないとぼくは考えています。あるいは、日本人という概念が、日本で生まれて日本語を話す民族だけに限らないといったところでしょうか。
どちらでも構わないけれど、とにかく日本人より日本人らしいアメリカ人もいるし、なんなら日本人なんてDNAからして様々な民族が入り混じった混血種。在日〇〇人とか言いますが、そもそも遥か昔にみんな朝鮮半島やシベリアからやってきたのだから、今住んでいる人はみんな在日〇〇人ですよね。
いずれにせよ、「真情(まごころ)」を開いているは日本的(日本的というのがおかしいけれど)な調和の精神を持っている人で、多くの場合は閉じてしまっている。閉じていたとしても、皆に等しく流れているのではないかと思うところです。
「無私の情」とも言っていますから、これこそセンス・オブ・ワンダーであり、初心であり、ゼロ地点の感性ででしょう。
Well-beingは何かを求める基準。今が幸福でなければ幸福に、幸福であればより幸福になれるように頑張る基準に見えます(詳しく知らないので違っていたらごめんなさい)。
Well-beingはなんとなく見栄えを良くしているけど、根本は「我欲の世界」の発想。本質はトランプ大統領と大して変わりません。
そうではなくて、ただ足るを知ればすべて今この瞬間から幸福で満たされる。足るを知るということも、ある意味ではゼロ地点の感性。何もないところにこそ全てがあるのです。
ゼロ地点から出発すれば、無限の可能性が広がっていく。そこからは成るがままに「Let go」です(ハムレット見てください)。
無私の情から発想すれば滅茶苦茶な政策にはならないだろうに、残念ですが仕方のないこと。
京セラ創業者の稲盛和夫氏は、仕事を進めるうえで「私心なかりしか」と常に問いかけていたことで知られています。
それは常にゼロ地点の初心に立ち返ることであり、無私の情である「真情(まごころ)」を開いて問いかけるということなのでしょう。
日本人の精神について話をする際、ぼくがよく引き合いに出すのはアーノル・ド・トインビーの話。
これまでの歴史を振り返って、滅びた民族と反映してきた民族を研究し、民族が滅亡する3つの条件を見出しました。
①理想を失った民族は滅びる
②自国の歴史を知らなくなった民族は滅びる
③物の価値に代えて心の価値を失った民族は滅びる
というものです。
このことは確か、古事記の解説かなんかの本で竹田恒泰氏が書いてたと記憶しているのですが、トインビーがそう論じている出典を調べても明確に出てこないため、誰かの手で都合よく作り替えられているか、伝言ゲームで内容が誇張された可能性もあります。というか、3つの指標はどう判断して測ったのか、そもそも研究できるものなのでしょうか。まあとりあえず今は気にせず。
仮に上記の条件が正であるとして、逆に考えれば、「理想」「歴史」「心の価値」を失わなければ、その民族は滅びないことになります。
奈良時代、聖徳太子はこの3つを知ってか知らずか「仏教」「神道」「儒学」の習合によって、その指針たる十七条憲法を定めました。ゆえに世界最古の国家となり得たのかもしれません。
そして日本にある言葉「しかたがない」「もったいない」「かたじけない」。
「しかたがない」は諦めの境地で仏の教えに、「もったいない」は八百万に神性を見出して物や心を大切に扱う精神、「かたじけない」は感謝と恥の文化で儒学に通じています。
「しかた」も「もったい」も「かたじけ」も、無いゆえにそこへ「無私の情」が流れてくるのです。
この無私の情を「真情(まごころ)」とかなんやかんや色々言ってますけど、初心にしてもセンス・オブ・ワンダーにしても、世阿弥、レイチェルカーソン、岡潔……その時々の人が捉えた「何やら大事そうなもの」は、なんとなくぼんやりとしていて境界がはっきりしない。また、全く同じものを捉えられているのかどうかも分かりません。
ですから、自分なりに捉えたものを独自の呼び方で「和の情(こころ)」と呼んでいるわけです。
3.己を貫くもの
さて、とても優しく読みやすいレイチェル・カーソンの文体とは打って変わって、読みづらく何を言っているのか分からなくなりそうな西田幾多郎の『絶対矛盾的自己同一』を取り上げてみましょう。
実際のところ、難解だと言われてはいますけど、言葉がややこしいだけで頭であまり考えずに感性で受け取るとよく分かると思います。浄土真宗みたいですね。
要するに、まず身体を持っているということは、必ずやるべき課題が与えられているということ。そして、善と悪、多い少ない、勝ち負け、自と他、この世のあらゆる対立する概念を超えたところに真実があり、そこに真に与えられた課題があるということです。
良い悪いと知識で判断する大人の心(多くの大人は子どもの心を忘れているという意味で)は言わば「アン・センス・オブ・ワンダー」。矛盾する二元対立の判断なき子どもの心が「センス・オブ・ワンダー」。
「センス・オブ・ワンダー」を持ってすれば、何をすべきかはすでに分かっている。その証拠に、子どもが「何をして遊んだら良いか分からない」と言っているのを見たことがありますか?
少なくとも健全な状態であれば、自ずと全てが遊びになって、何をするのかは感性で分かっており、大いなる意志に突き動かされているのが子どもなのです。
さらに「自己矛盾の底に深く省みることによって、自己自身翻して絶対に結合する」と西田は言います。
「絶対」とは相対的な二元対立の世界の逆、一元的な世界。
相対の世界は仏教でいう欲界と色界。絶対はそれらを超えた無色界のことを指していると考えられます。
絶対に結合する、無色界に目覚めるとはすなわち、無私の情を開くことであり、センスオブワンダーを呼び覚ますこと。
西田はこれを「回心」と言いました。
そのためにはまず自分自身を否定する必要があります。
矛盾した世界から「絶対」に結合し、自己を同一化する「回心」へ向かうため、先ほどの理想、歴史、心の価値の図が活用できます。
民族としてではなく自己という小さな単位に置き換えると、「理想」とは”好きなこと”。「歴史」はこれまでの経験から見えてくる”得意なこと”。「心の価値」は世のため人のために自分が何を求められているのか、”有用なこと”。世の中の役に立つことですね。
これらを確立すれば、自己は幸福であれます。
好きなこと、得意なこと、有用なことを見極めるためには、自己矛盾の底へと深く省みなければなりません。
好きなことだけでなく嫌いなこと。得意ではなく苦手なこと。有用だけでなく無用なこと。これらを探求していく必要があります。
「得意」かつ「有用」なことは、自分にとっての適職。「仕事」にすべきこと。
「好き」かつ「得意」なことは、趣味的なことに分類され、名付けて「私事」。
「好き」かつ「有用」なことは、与えられた使命と言えるかもしれません。また名付けて「志事」です。
すべてが重なるところに、絶対的無我の自己が浮かび上がってきます。
「好きなこと⇄嫌いなこと」を見極めるにあたっては、知識をもってそこに理由を考えてはいけません。「〜だから好き」という論理的な理由を離れて、理由なく純粋な気持ちで何が好きなのか、嫌いなのかを観察していきます。
「得意なこと⇄苦手なこと」は、感情や気分でなんとなく感じるのではなく、客観的かつ論理的に見極めていきます。他人からのフィードバックをもらうのも良いでしょう。
最後の「有用なこと⇄無用なこと」は、ちょっと難しいかも知れませんが、実際に人から頼まれたりお願いされたりすることを確認していきます。また自分でついやってしまう無駄なことについても考えます。例えば、よく細かい作業を頼まれるという場合、あの人の方がもっとできるとか他者と比較しないことが大事です。これも他人からフィードバックをもらうのも良いですね。
回心曼荼羅というチャートを作ってみたので、実際に書き出すのに活用ください。それぞれ8つずつ書くマスがあるので、あとで振り返ったとき書き直せるように鉛筆やシャーペンで書くのがオススメです。
右下から反時計回り(金剛界曼荼羅にならって)に考えて書いていき、私事、仕事、志事は、それまでのマスに書き出したことを結びつけてまとめていきます。
なかなか難しいかも知れませんが、自分のことを可視化するのに良いツールだと思います。
PDFはこちらからダウンロードできますので、必要あらば自由に使ってください。
なんと言っても、好きだけでなく嫌いなこと(苦手、無用も)も振り返っていくのがポイント。
好きと嫌いは矛盾的かつ同時的に存在しており、「嫌よ嫌よも好きのうち」です(笑)。
好きの中にはさらに好きと嫌いがあり、そのまた好きの中にも好きと嫌いがあるように、易の八卦にも通じています。
時間的あるいは空間的変化の中で、好き嫌い、得意苦手、有用無用はいとも簡単にひっくり返ることがあります。だから真の自己を知るヒントは、その両方にあるというわけなのです。
おむすびマークの中心にある梅干しは「アマノミナカヌシ」……もとい「ウメノミナカヌシ」ですが(『むすびのこころ』1〜4章参照)、私たちが真に生きるために結合すべき「絶対」の点でもあります。梅おむすびの梅を食うということは、回心するということなのです(なんじゃそりゃw)。
「絶対」は無の境地に他なりません。
無の境地は数学上の厚みのない中心線(真ん中)と同じく、物質界には存在し得ません。真っ二つに折った紙の折れ目には、虫眼鏡で覗けば厚みがあって線ではない。それを半分におっても実際のところやはり線ではありません。
円も然り。デジタルデータで見ればジグザグがあり、コンパスで鉛筆やインクで正円を書いたとしても顕微鏡で見れば凸凹していて、この世には真円も厚みのない線も四角も点も、概念としてしか存在していないのです。
「無私」はそれに近いものだと捉えています。
では、まったく手が届かないかというとそうでもなく、命は常にゆらぎとともに存在しているわけで、ほんの一瞬、そこに触れることがあります。
私たち「アン・センス・オブ・ワンダー」な大人であろうと、瞑想や何かに集中している時など、無の境地に触れている時間があります。その瞬間は色界・欲界から離れて無色界にいると言えるでしょう。
ところが、生きている限り人間は色界(物質世界)にいます。だから生きているとも言えるのですが。
そこへ欲界にある「我」や「欲」によって、無の境地からゆらぎ離れてしまいます。我欲を抑止しようとする「律する」や「戒め」は、それらを反対側に引っ張っているに過ぎません。
この揺らぎを極力抑えて無の中心線あるいは中心線近くに身をおく生き方が、真に生きるということです。
また、無の中心線は概念として物質界に存在しませんが、はっきり白黒に分かれているのではなく、グラデーションになっており、そのグラデーションの内で生きていくことは実際可能なのだと思います。仙人みたいに。
お釈迦様はピタッと止まってたんですかね。知らんけど。
我欲や戒律にしても、完全に領域が分断されているわけではなく、同じくグラデーションになっていて、欲界・色界・無色界は3色グラデーションで虹のようになっていると解釈しています。
どうあれ、死ねばゆらぎはなくなって無の境地に入っていきます。ところが、ゆらぎが抑えきれないと、ゆらゆら動き出してしまい、再び色界に転生して「ゆるがない」練習をさせられる。生きている間にあんまりゆるがない練習をしておけば、輪廻せずに解脱できそうです。
プラトンは『パイドン』のなかでこう語りました。
「正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ」と。
生きながらにして、無の境地あるいはその近くにいる状態は、知識や感情、競争心を離れ、自我を超越しているということ。人為的ではなく、自然に委ねているということです。
これを「道常無爲、而無不爲(道は常に無為にして、而も為さざるは無し)」と老子は説きました。
人為を離れ、自然に委ねること(無為)ができたなら、できないことは何もない。
何もないところに全てがある(ワンピースみたい)。
そこに無限の可能性があるのです。
ありったけの夢がかき集められているのです。
余談ですが、2月21日から23日まで3日間の瞑想合宿をしました。
合宿場所は、花背山の家という研修施設なので、布団の準備や部屋の片付けは自分たちでしないといけないし、日中の最高気温は0度以下の極寒。たくさんの準備物を用意して、参加者に少しでも快適に過ごしてもらえるように頑張りました。それでも至らない点は多々あったのですが……。そして、お酒は飲まず早寝早起き、瞑想カリキュラムがびっしりで、帰った次の日は眠くて何も手につかず、疲れてほぼ寝て過ごしました(笑)。それでも、とても楽しい三日間だったので、またやりたいなと思っています。
その一週間後29日の土曜日。友人から連絡があり、参加メンバーがひとり風邪で突然キャンセルになったとのことので、土曜の朝、福井県は越前にある料理旅館に泊まりに行くことに急遽決まりました。瞑想合宿の質素さとは対照的に、豪華なロイヤルルームで、部屋に一人担当の方がつきっきりで至れり尽くせり。サービスしてくれた贅沢な海鮮とカニづくし料理で飲んだくれ。部屋についてるサウナと水風呂、露天風呂に浸かりながら酒を飲む。朝も夕食みたいに豪華な朝食はまたカニづくし。
なんて対比的な10日間だったのだと、笑けてきました。
これもどっちが良いとかじゃなくて、贅沢と質素の自己矛盾の中に真の自己があるのだと考えさせられました(ほんまかいな)。
先ほどの回心曼荼羅を通じて自己を深く省みれば、そこに貫かれている一本の筋を見出すことができると思います。
自分らしさ、アイデンティティの確立にもなるでしょう。
そして、絶対と結合する「回心」は、密教の即身成仏。神道の神人合一でも良いです。とにかくゴールではなく、そこからが本当の始まりなのです。
結婚はゴールじゃなくて始まり(修行の……)。
そうやって絶対矛盾的自己同一に生きていくことを「和の情」と呼んでいます。
『論語』にある「吾が道、一以て之を貫く(わが道は一つのことで貫かれている)」は、常に流れているのに意識できていない「絶対」がそこにあることを示していて、回心せよという孔子のメッセージのように思えてきました。
ということで、今回は「無」というテーマでまとめてみました。
最後までお読みいただきありがとうございました。