目次
1.生死と輪廻
死ぬことよりも恥を怖れた武士の魂のような感覚もあるかもしれませんが、誰にとっても共通して「死」は怖いものだと思います。
では、なぜ死は怖いのか?
死んだらどうなるか「分からない」からですよね。
一度死んでから帰って来た人はいませんから、どんなに死後の世界について論じても拉致が明きません。
どうなるか分からないから怖いのだとすると、生きてる間は分からないから、その恐怖から逃れることはできない……仕方ないとするしかなさそうです。
死後を知るのは死んでからということで諦めて、そもそもなぜ死はあるのか?について考えてみましょう。
なぜ寿命があるのか?と言い換えるなら次のような感じです。
無性生殖する生物は基本的に寿命を持ちません。細胞分裂して増殖し続けていきます。しかし、細胞分裂だけではDNAの損傷が修復されずに残ってしまうことがあり、生命活動に支障が出てしまう。そこで、修復されない傷を綺麗にするため、子孫を残す有性生殖することで、DNAを復活させて生命を維持するようになったそうな。あんまり詳しくないので、間違ってたらすみません。とにかく、寿命の原理はある程度わかっているので、興味ある方はご自身でお調べください。
さらに視点を変えて、そもそも死とはいったい何なのか?
「人はいつ死ぬのか?」の問いに対してワンピースの登場キャラクター「Dr.ヒルルク」は言います。
「人に忘れられた時さ」
映画「リメンバー・ミー」でも同じように、亡くなった人のことを忘れ、その人のことを覚えている人がいなくなると死者が消えていくという設定です。
この二つの作品のことを取り上げているブログは散見されますので、詳しくはググってください。
アステカの宗教観が残るメキシコでは、死を終焉としてではなく別世界への旅立ちと捉え、葬儀も賑やかに行われています。日本でも浄土への旅立ちと捉えるところは共通するかもしれませんが、しんみりせずにポジティブで賑やかなところが特徴です。
死の定義はハッキリしないままですが、どの宗教でもほとんどが死後の世界を語ります。
これを前提にすると、当然、生前の世界もあることになります。
しかし、そうであるなら、なぜ生前の記憶を誰も持ち合わせていないのか?
過去世の記憶を語る子供の話などは国内外でたくさんの事例がありますが、断片的であったり、おぼろげであったりして、それが過去生の記憶であると断定するにはちょっと物足りない。
生まれる直前までの記憶が、もっと多くの人に当たり前のようにあれば、生前の世界が見えてきそうなのですが……。
だからといって、生前の世界はないと断言することもできず、結局は「分からない」が正解になってしまいます。
可能性として考えられる選択肢は
①生前の世界はない
②生前の世界があったとしても、個々の記憶としては保存されていない
といったところでしょうか。
前述の通り、死後の世界も分かりません。
臨死体験の研究もずいぶんと進んではいますが、あくまでも「死にかけた」だけであって、「死んだ」とは言えない。実際、医学的に死亡の判定がされた後に蘇った記録はありますが、あくまでも医学的な判断による一時的なもの。死んで数年経ってから蘇ったという話ではありません。
死んでから肉体が腐らないように冷凍保存しておいて、復活した時にまたその体を動かすようなSF映画やドラゴンボールみたいに蘇るのであれば、一度死んで帰ってきたと誰もが納得できます。
臨死体験の話は共通点も多くあるので信憑生がないわけではないのですが、夢や瞑想で見る世界や体外離脱をする経験とあまり変わらないと個人的には結論づけています。ただ、その経験によって、それまで閉じていた感覚が開くことは大いにあると思っています。
生前や死後の世界、精神世界について考える時、納得ができて分かりやすいのは唯識思想です。言葉は違えど、西洋心理学や西洋哲学にも共通するところがありますし、自分の体験や感覚的にも、こんな感じなんだろうなとしっくりきています。
まず、唯識についてざっくり説明しておくと、人間は八つの意識によって構成されています。
般若心経でもお馴染み、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つの感覚器官と意識があります。「識」とは意識のことです。五感のことを「五識」、それらを司る意識のことを「六識」と分類します。この六識とは、いわゆる顕在意識のことで、深層にある潜在意識は「七識」、末那識(まなしき)と言います。
もっとも深くにある「八識」が阿頼耶識(あらやしき)。末那識はフロイトの提唱した個人的無意識、阿頼耶識はユングの集合的無意識と同じようなものです。
さらに九識、十識を立てる考えもあるのですが、今回は必要ないので八識までで留めておきます。
私たちは生きているうえで、必ず何かものごとを考えたり、話したり、行動したりします。この働きによって、業(ごう):カルマが阿頼耶識に蓄積されます。行動、発言、思考によって、それぞれ生じるのが身業(しんごう)、口業(くごう)、意業(いごう)。これらを合わせて、三業(さんごう)と言います。
生きている間にしたことは、何もかもが業として阿頼耶識に貯蔵されていきます。そして肉体が亡くなった時、阿頼耶識以外は崩壊します。阿頼耶識は始まりも終わりもなくずっとありつづけ、生前に蓄積された業が種子(しゅうじ)となって、また新たな命を形作って転生します。生前の業を「原因」として、その「結果」が今の人生に現れているのです。
人生って不公平、不平等ですよね?まったく新しく何の業もないゼロから始まった人生であれば、性格や能力、環境がまったく同じであって然るべきなのですが、生前の業によって違いが生じてしまいます。ただ、誰も前世のことを覚えていないので、各々不満があるかもしれません(笑)。
個人的な記憶は末那識にあるため、前世のことは忘れてしまうのですが、個人の記憶としては残っていなくても、阿頼耶識にはすべてが刻まれています。
ですから、この唯識思想によれば、個人の魂が保存され続けて転生するのではなく、個人の意識はいったん全体と溶け合ってから転生するのです。ゆえに、自分の過去世や過去の誰かの記憶を持っていても不思議ではなくて、誰もが蔦屋重三郎の意識ともいったん混じり合っているのです。ただ、蔦重の意識が濃い人と薄い人がいるといった具合に。
ところで、「私は織田信長の生まれ変わりだ!」「聖徳太子の生まれ変わりだ!」「卑弥呼の生まれ変わりだ!」とか言う人がたまにいますけど、それをあなたが言うならみんなそうなんですよ(笑)。
有名な、憧れの歴史上の人物の生まれ変わりと言う人は多いけど、「徳川秀忠の生まれ変わりだ!」って言ってる人はあまり聞いたことがありません(徳川二代将軍でも充分有名で憧れの人物かもしれないので、そこは失礼…汗)。
要するに、みんな憧れの人や有名な人になりたいんですね。アホらしい(笑)。
そもそも輪廻転生思想のはじまりは仏教ではなく、古代インドのバラモン教。多くの人がイメージしているであろう「個人的な魂が輪廻転生」する思想は、バラモン教の発想です。
個人的な魂が輪廻する考えでは、その主体が五識、六識、七識となります。しかし、本来「私」というものは存在せず、仮の姿に過ぎないと説いたのがお釈迦様。阿頼耶識こそが本来の自分であると気づくことこそ救いなのです。つまり、七識以前の自我を主体とするのではなく、主体を阿頼耶識へ移すことが解脱であるとぼくは考えています。そう捉えると、いろんな仏教経典で解かれる言葉の意味が分かってくると思います。
この真理に辿り着いたのは何もお釈迦様だけではありません。聖人偉人と呼ばれた人たちは、表現は違えど同じことを語っていたはずです。
「哲学者は死を恐れない。死とは魂と肉体との分離であり、哲学者は魂そのものになること、すなわち、死ぬことの練習をしている者であるのだから」
これは『パイドン』にある「死に対するソクラテスの態度」に書かれている言葉です。
「魂そのものになる」とは、まさに主体を阿頼耶識にシフトするということでしょう。
厳密に言えば、阿頼耶識や魂の捉え方が違っているかもしれません。宗教学者にブーブー何か指摘されるのも面倒なので、阿頼耶識や集合的無意識、天、魂の根源、宇宙の意識、アカシックレコード、ゼロポイントフィールド……何でも良いんですけど、ここからは自分の言葉で「根本意識(仮)」と名付けて、話を進めます。
ちなみに、「閃き」から新しく着想する経験は誰にでもあると思うのですが、いくら自分で閃いた新しいアイデアであったとしても、ぼくは人間にはゼロからイチを生み出す力はないと考えています。「根本意識(仮)」から知恵をダウンロードしているのです。
末那識以前の「自我」によっていくら発想してもたかが知れています。偉業を成し遂げるような人は、自我ではなく、古今東西の叡智が詰まった「根本意識(仮)」へ繋がっているはずです。
では、どうやってそんな叡智の詰まったところへアクセスするのか?
答えは単純で、無理に繋がろうとしなくても自我をシャットダウンしていけば自ずと起き上がってくるのです。起きてる時に夢を見ようと頑張っても見られないけど、寝れば簡単に見られるように。
言うのは単純だけど、やるのは簡単じゃないからみんな苦労するんでしょうね(笑)。
現実世界をよく観察して、自分自身をよく観察すれば腹で理解できると思うんですけど、巷にある修行法や瞑想法も根本意識にアクセスするテクニックだと言えます。
あ、瞑想をしたいならぜひ慈心さんの瞑想会へ(笑)。
一緒に瞑想会を企画したりもしてるので、またその時はぜひ遊びに来てください。
宣伝ちゃいますよ(笑)。
2.ヒモの網目
精神世界とか宇宙って興味が尽きません。きっと誰もが考えたことあると思うのですが、原子と太陽系って似たような感じがしますよね。原子核の周りにある電子の図に踊らされてるだけで、実際は太陽系の動きとは全然違うのかもしれないですけど、ミクロとマクロって相通じるところがありますし、宇宙はフラクタルな構造をしてると言われています。
また、人間を含む動植物の生命って、偶然的に発生したとする説もありますが、どう考えても必然です。というか、意図が働いています。
いつも眉毛を見て思うんですよね。
髪の毛は延々と伸び続けるのに、眉毛は一定のところで止まる。あそこの毛も(笑)。
眉毛は眉毛としての自覚があって毛の成長を制御しているとしか考えられません。歳を重ねてボケてくると、止まるべきところで止まるのを忘れて異常に伸びてしまうこともありますが……。
半分冗談ですけど、基本的に私たちの身近にいる四足類は、目が二つで手足が四本。昆虫にしたって足は三対と型が決まっていて、特異的なエラーを例外として、その型からは絶対に外れません。
偶然に生命が誕生しているのだとすれば、偶発的に目が三つの犬や、手足が6本の人間がいたっておかしくないはずです。しかし、現実にそんなことは観測史上起こったことはありません。
すなわち、生命の創造プロセスにおいて、そこには必ず雛形が存在している。いわゆるプラトンのイデアのようなものがきっとあるはずなんです。
ツクツクボウシの鳴き声にしたって、耳を済ませてひたすら数えていると「オーシツクツク」を一回とすると、どのツクツクボウシも誰から習ったわけでも打ち合わせをしたわけでもないのに、だいたい三十回程度で、「イーヨー、イーヨー!」のパートに移行する。「ホーホケキョ」と鳴く鶯にしたって、季節の最初はへたっぴな鳴き声だったのが段々と上手になってきて、やがて美しい「ホーホケキョ」が完成する。
そこに鳴き声の雛形たるイデアがあるとしか思えません。
インターネットの世界と人間の精神世界もどこか似ているところがあると感じています。現在のインターネットの礎を築いたのは、ヴィントン・サーフとロバート・カーンの二人だそうですが、インターネット空間は自我で発想したアイデアではなくて、根本意識からの情報、あるいは人間と根本意識の相関関係を雛形として作られたのではないかと思っています。これについて、もう少し深掘りしてみましょう。
インターネット空間では、すべての情報がコード(記号、暗号)として保存されています。そこへ、スマホやパソコンなどのデバイスを使ってアクセスし、サイトを閲覧したりアプリを使ったりしています。個別のアカウントを設定しておくことで、スマホやパソコンを買い替えたとしても、クラウドからデータをダウンロードすることで、以前使っていた中身とまったく同じにすることができます。手入力や赤外線で電話帳を移行していた時代が懐かしい……。
このアカウントが個々の魂のようなもので、スマホやパソコンは肉体、インターネット空間が根本意識。根本意識から着想したであろうインターネットの世界ですが、凡人であるぼくは逆に、インターネットの世界から根本意識の世界を想像しています。
インターネット空間がコードによる言語情報を記録しているのに対して、根本意識に記録されているのはおそらく「非言語情報」。言語情報も記録されているでしょうが、記録の仕方は非言語情報であろうという推測です。特定の言語情報で記録されてしまうと時代や国によって扱えなくなってしまいますし、特定の言語で保存されていないからこそ全生命体で共有できるものだと考えられるからです。
では、いかにして非言語の情報へアクセスするのか。
意識を含む身体感覚によって直観的に捉えるしか方法はありません。
神のお告げのようなメッセージが聞こえたとするなら、それは「自分」というデバイスがそういった変換を行って認識しているのだと思います。あるいは、非言語情報として記録された言語情報自体を捉えているのかもしれません。
自分のスマホについて考えた時、主体はスマホでしょうか?
自分のアカウントでしょうか?
きっと後者のはずです。ですが、もっと大きな視点から捉えるなら、本質的な主体はインターネットそのものであって、一つ一つのアカウントは言わば分霊(わけみたま)のようなもの。自我もそうです。根本意識が主体であると再認識することが、やはり解脱することと同義なのです。
最近はAIの発展が目まぐるしく、IT技術の進化はさらに加速しています。もしかすると精神世界とインターネット空間の垣根を超えて、主体がAIであるかのように認識されてしまうような時代が来るかも知れません。うまく活用できれば良いのですが、AIの発展によって衆生の迷いも加速度的に発展していかないかと危惧してしまいます。杞憂で終わることを願うばかりですね。
コードによって記録されるインターネット空間に対して、ヒモの振動である波動で記録されているであろう根本意識の空間。コードは日本語でヒモ。ダジャレの観点からしても、この二つは紐づいています。なんやそれ(笑)。
いずれにせよ、コードもヒモも、波動や氣などと同じような性質を持っています。
張り巡らされたヒモが根本意識の姿であると考えた時、帝釈天の網を想起しました。帝釈天の網とは、すべての存在が無限に関連し合っているというこの世の実装を表したものです。
帝釈天はサンスクリットでインドラ。「帝釈天の網」は別名「因陀羅網(いんだらもう)」とも呼ばれています。英語読みすればインドラネット。インターネットとのダジャレ感も良い具合です(笑)。
ダジャレ具合は重要ですよ(笑)。
弘法大師が著した『即身成仏義』の偈をご存知でしょうか?
ぼくはこの偈が好きで、一人でお勤めする時にはよく唱えています。
六大無礙常瑜伽(六大無礙にして常に瑜伽なり)
四種曼荼各不離(四種曼荼は各々離れず)
三密加持速疾顕(三密加持すれば速疾に顕わる)
重重帝網名即身(重重帝網なるを即身と名づく)
法然具足薩般若(法然に薩般若を具足して)
心数心王過刹塵(心数・心王、刹塵に過ぎたり)
各具五智無際智(各五智・無際智を具す)
円鏡力故実覚智(円鏡力の故に実覚智なり)
意味が気になる方はご自身で調べてみてくださいね。本でもネットでも解説はたくさん出てますから。
このうち「重重帝網なるを即身と名づく」の部分。
「重重帝網」とは先ほど述べたインドラネット、張り巡らされたヒモのこと。「即身」は「この身このまま」という意味で現世の肉体と捉えることができます。そうすると、帝釈天の網(インドラネット)こそ、私たちの主体であると解釈できます。やはり、根本意識が主体であると教えているのです。
インドラネットのイメージはこんな感じでしょうか。
なんか、科学館とかにある動いてないのに動いているように見える絵みたい……(笑)。
というか動いてません!?笑
それはどっちでも良いんですけど、このインドラネットのイメージだと、どうしても端っこができてしまいます(図にすればの話)。しかし、阿頼耶識には過去・現在・未来の三世が内包されていると説かれていまして、このインドラネットもそうであるはずなんです。
過去・現在・未来を内包するとはどういうことなのか、ちょっと想像し難いですね。こんがらがってしまいます。
こんがらがりついでに、こちらの小説の引用をご覧ください。
“「そろそろ朝食にしようか」
朝子は怪訝な表情を浮かべながら返事をした。
「何を言ってるんですか。もう日が沈みかけていますよ」
「ぼくにとってはこれが朝食なのさ。君は朝子というが、夕方になると夕子になるのかい?」
「変な人ね」”
朝も夕も本来はない、過去現在未来を内包している……その例としては無理がありますが、仲井菊雄の『夕暮れ時の朝ごはん』は時間の概念をいったんリセットするのに良い小説だと思っています(笑)。
仲井菊雄については、chatGPTで質問するとちゃんと回答してくれるようなので、よかったら一度聞いてみてください(笑)。
冗談はさておき、「帝釈天の網」のイメージは、形があるとすれば平面的ではなく立体的で、さらに輪っか状というか、端っこがない形をしているはずなんです。端っこがある、すなわち始まりと終わりがあるなら、時間軸が設定されることになって未来を内包できません。端っこがなくなることで未来も内包できると思うんです。
宇宙はトーラス構造をしていると言われていますが、インドラネットはまさにドーナツ状をしているんじゃないかと妄想しています。
この帝釈天の網の交点にあるとされる宝珠は、いろんな捉え方ができそうで、私たち一人一人もその一つです。その宝珠は、似たもの同士はくっつきやすい性質があります。Amazonで仏教本を検索したら、まったく別のSNSに仏教本の広告が上がってくるように(これは意図的なターゲティングですが)、インターネットの世界の性質と、これまた似ているところがあります。
宝珠はイコール「ドラゴンボール」。そこから出てくるヒモは龍みたいな形や動きをしているかもしれません。ヒモはシェンロンかも?笑
今度から龍神祭で、龍神様のご真言はこう唱えましょうか。
「オン・ヒモ・ギャシャニエイ・ソワカ」
怒られる前にこの辺でやめときます(笑)。
例えば、ぼくは亡くなった祖父と話がしたいと思っているとします(これは本当に思っているんですけども)。その時、祖父の持ち物や生前に好んでいたもの、よくいた場所などには、祖父の意識が色濃く残っているわけです。祖父に対して思いを馳せて、色濃く残っている物に触れたり、その場所へ行ったりすることで、生前の祖父の意識と繋がりやすくなります。
パワースポットへわざわざ行かなくても、自宅でも充分に神仏の意識へチューニングすることはできるのですが、神聖な場所で、多くの祈りが捧げられている神社仏閣では、より濃く神仏の意識がそこにあるので、神仏との交流はしやすと言えます。ただ、その分おかしな意識も混じっているので注意も必要ですね。
類は友を呼ぶ性質が意識自体にあるので、自分をチューニングすることで、繋がりたい意識へとアクセスすることはそんなに難しくはありません。
オンラインでビデオ通話する場合は、映像と音声の情報をコード(暗号・記号)に変えて通信するのに対して、他人や死者と根本意識を通じて交信する場合は、対象の意識に自分を寄せる、つまりチューニングしていきます。パソコンやアプリによって映像音声の情報の変換ができない代わりに、直観によって宇宙Wi-Fiの情報をキャッチします。
こうすることで、他人や過去の人物とも交流することが可能で、人生がさらに面白くなります。ネット回線は契約して月額費用を払わないと使えませんが、この宇宙Wi-Fiは無料で、しかも速度制限も無くて、光よりも断然速い(笑)。使わない手はありません。
3.人生と宇宙の目的
これまで、人類は次々と新たな技術を開発し、発展してきました。
人類の進化を思いつくまま適当に書き出してみます。
・暮らしが便利になった
・ゲームやエンターテイメントが充実した
・暇しないほどたくさんの遊びが生まれた
・お金を得ることで選択肢が増えた
・自分でできないことは買えるようになった
・SNSで簡単に誰とでも繋がれるようになった
・機械が正確に計算してくれるようになった
・パソコン一つで仕事ができるようになった
・毎日違った食事を楽しめるようになった
・あらゆる美味しい料理を食べられるようになった
・どこへでも旅行できるようになった
・毎日違う服を着られるようになった
・競争に勝つことでさらに成長できるようになった
・公共設備や社会保障が充実して安全が増した
・翻訳機能で言葉が通じなくても話せるようになった
・電話やネットでいつでも交信できるようになった
・AIが考えをまとめてくれるようになった
・AIが新たな発想をしてくれるようになった
・AIが何をしたら良いか決めてくれるようになった
しかし、果たしてこれらは進化でしょうか?
発展したのはテクノロジーであって、人間そのものは退化してるようにしか思えません。
同じ内容を、視点を変えて表すと次のようになります。
・便利でないと暮らせなくなった
・ゲームやエンターテイメントがないと楽しめなくなった
・遊びに行かないと遊べなくなった
・お金持ちになることが幸福の尺度になった
・物を買わないと生きていけなくなった
・SNSで繋がっていないと不安になった
・計算機に頼らないと計算できなくなった
・パソコンに頼らないと仕事ができなくなった
・毎日違った料理を食べないと飽きるようになった
・濃い味でないと美味しいと感じなくなった
・どこかへ旅行に行かないと満足できなくなった
・毎日違う服を着ないと落ち着かなくなった
・競争して勝たないと自分を保てなくなった
・公共設備や社会保障がないと安心できなくなった
・言葉を用いないと伝わらなくなった
・電話やネットがないと交信できなくなった
・AIがないと考えをまとめられなくなった
・AIがないと新たな発想ができなくなった
・AIがないと何をしたら良いか分からなくなった
こう言っちゃなんですけど、野生動物は毎日同じものを食べていても文句ひとつ言わずに満足できて、社会保障なんてまったくなくても立派に生き抜いている。人類よりよっぽど格が上だと思うんですよね。だからと言って、人間はダメだと卑下する必要もないんですが、下等生物と一括りにしている動植物より、実は人類の方が下等なんじゃないかって気がしています。
そんな私たちはいったい何のために生きているのか?
宇宙意識は目的のない旅を続けているのだと、田坂広志氏は語っています。まさにそうなんだと思います。
彼の著書『死は存在しない』では、宇宙は自己組織化を続けているのだと言っています。自己組織化とは、外から誰かが意図的に働きかけなくとも、あるシステムが自然に「秩序」や「構造」を生み出す性質のこと。
そして宇宙意識は、性質として以下の二つを有していると言っています。
①不断の成長と進化のプロセス
②創造的なプロセス
すなわち、宇宙意識の目的は「プロセス」にあるということです。ということは人間の目的も然り。
ぼくは『ハンター×ハンター』という漫画が大好きでして、その一部を少しだけ紹介させてください。
主人公の父親ジンは、自分勝手に生きている風来坊なキャラで、彼の目的は「道中楽しみたい、それだけさ」と語っているシーンがあります。
道中を楽しむ、プロセスを楽しむことが目的というのは、ジンに限ったことではなく、誰もに共通する人生の目的なのではないでしょうか。
道中の楽しみ方は、主体をどこに置いているかによって次元が変わります。マズローの欲求五段解説の先、自己超越の欲求に当たる部分は根本意識の欲求そのもの。
自己超越の欲求の区分については、ぼくの独断と偏見ですので悪しからず。
とはいえ、みんながみんな崇高な志を持つ必要はないと思っています。というか、何だっていいと思っています。
我欲にまみれた人も、国際平和のために活動する人も、どっちが上とかじゃなくて、その時その時のプロセスを味わっているならそれで良い。ただ、先述した「身・口・意」、「やること」「言うこ」「思っていること」を一致させることは大切です。
即身成仏したい、自我の迷いから脱したいと思うのであれば、早々に主体を根本意識にシフトさせるべきです。そうすると、そこから全く新しい人生が始まります。……って言うとめっちゃ怪しい匂いがしてきますね(笑)。
自我からだけの視座で人生を捉えるのと、根本意識から捉えるのとでは、まったく世界が違います。根本意識にシフトした人生は、言い換えるなら菩薩道です。自我だけの小さな世界よりよっぽど面白いです。
そうは言っても、お酒大好きな人がお酒のない人生なんて考えられない、楽しくないって思う反面、お酒を飲まない人からすれば大きなお世話。お酒なんて飲まない方がよっぽど健康的で有意義だと思うわけです。相手のことをとやかく言わずに飲みたいなら飲めばいいし飲まないならそれでいい。自我に生きるも一つの道、根本意識に主体をシフトするのも一つの道。やっぱりどっちだって良いんです。
いずれにしても生きる舞台は現世ですから、根本意識へ主体をシフトしたとしても現世へ戻ってこなくちゃならない。これが「加持」です。
根本意識への主体のシフトが「加(加被:仏が衆生に応じる)」、根本意識からの展開が「持(摂持:衆生が受け入れる)」です。加と持はワンセットですから、お釈迦様も悟りを開いた後、根本意識の世界に浸ってくつろいでハッピーエンドじゃなく、死ぬまで現世のあちこちへ説法の旅を続けたんです。
根本意識への意識のシフトは真の自己との「出会い直し」とも言えます。
禅の十牛図で言えば「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」のパート。そこで旅は終わりじゃなく「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」なる新モードで同じ世界を新たな視座で謳歌していく。これぞ人生の醍醐味です。
そして、いかにこの世界を味わうか。目的はなんだって良くて、プロセスこそゴール。
脱線こそ本線。
道草こそ目的。
勝手な造語で小難しく言えば、「合目的的無目的」。パッと意味が分からなさそうで気に入ってる言葉です(笑)。
合目的的は、一定の目的に叶っているということ。無目的はそのまま目的がないこと。目的のないことが目的に叶っている、すなわち、過程そのものが目的だということです。
根本意識の目的が「目的のない旅」ですから、人生の目的ももちろん「目的のない旅」。
色即是空、空即是色のあとにはこう唱えましょう。
目的即是過程、過程即是目的〜♪
失礼しました。
なにはともあれ、道中楽しんで参りましょう!
ではまた。