CRAFT GATE

和の情 テーマ「味」

 

  1. 具体策より方針
  2. 味わうとは
  3. 優先するもの
  4. 幸福と時間
  5. 喜びの指標
  6. 小さな思考を滅する
  7. 真正の方針

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1.具体策より方針

書店へ行くと様々な成功本、ハウツー本が並べられており、インターネット上でもたくさんの“こうすればうまくいく”といったストーリーに溢れています。お金や仕事、ダイエットにモテる方法などなど。しかし、出回っている情報量の割に、同じ成功を追体験できている人は少ないのではないでしょうか。ほとんどの場合、後知恵バイアスのかかったドミナントストーリーであると思うのです。

後知恵バイアスとは、最初から予測や計画をしていなかったに関わらず、結果が出た後で「全ては予測可能であった」と考える心理的傾向のこと。偶然うまくいったことを、さも自分が必然的に結果をもたらしたと信じてしまうのです。

ドミナントストーリーとは、ネガティブなことに使われることが多い言葉ですが、言わば“思い込みの物語”。先の後知恵バイアスに加えて、「こういう道順を辿ったから今の成功があるんだ」と思い込んでしまうわけです。

そもそも、天地自然は同じものを二度と作りません。畑仕事をしていて、「こうやったからうまくいった」も来年になると微妙に環境も変化しており、まったく同じことが通用しないことが多々ありあす。また、“まったく同じように”しようと思っても、実際“まったく同じにはならない”でしょう。具体的であればあるほど再現性は低く、特に「人生の成功法則」のような物語ほど、同じことを繰り返すのはなかなか難しいのではないでしょうか。もちろん、再現できる技術や知識もたくさんあります。重要なのは、具体的な方法よりも方針や方向性、考え方に根本があるということ。

いずれにせよ、他人の食べかすを漁るんじゃなくて、自分自身で一歩一歩しっかりと味わって生きていきたいところです。

2.味わうとは

「味わう」という言葉について、もともとは「あぢはふ」と書き表されていました。アニメなどで悪役が「オマエにもこの苦しみを味わわせてやるー!」とセリフを発するシーンなどで使われる「味わわせる」。てっきり「味合わせる」だと昔は思っていたのですが、もとの言葉を知ると、納得できますね。

漢字の成り立ちに関しては、「未(まだ明らかではない)」と「口(微かなものを感じ取る)」の組み合わせから出来ています。ちなみに、曖昧の「昧」は、左が「口」ではなく「日」なので、日がまだ明らかではない、明け方のうす暗い時を表しています。

味わうの意味を辞書で引くと、食べ物を味わう意味と物事を味わう意味、大きく分けると2種類があります。

食事をしている時、多くの人は「ながら食べ」をしているのではないでしょうか。テレビやyoutubeを見ながら、明日の予定を考えながら、人と会話しながらなど。ぜんぶ悪いわけではないですが、その時そのことに集中する、マインドフルネスな食事をしてみると気づきがたくさんあって面白いですよ。

「108回噛んで食べる」とゲームのように楽しんでいると、米はお粥になって甘味がじんわり出てきて、某芸人さんが言うところの“味の向こう側”を感じられたりして(笑)。カレーライスでも、さらに口の中で混じり合いながら「あぁ、エントロピーが増大していくー!」と味の交わりや変化を感じることができます(笑)。

モノ・コトに関しても、歩いている時に歩いていることに集中する歩行禅のようなことをしてみたり、参加者の一人が話してくれた例ですが、歯磨きをする時に今どこを磨いているのか細かく集中してみたりするのも面白いかもしれません。

そんな「味わい」は、過去にも未来にもなくて、現在にしかありません。幸福にしても、今この瞬間にしかないと思っています。ところが、多くの人は過去に執着したり、未来に期待したりして今を過ごしているのです。「あなた、いったいどこにいるんですか!?」と思ってしまいます(笑)。未来に意識がいって、不安を取り除きたい、願望を叶えたい、という気持ちはうまく利用されてしまうことが多いのです。「売る」行為自体が悪ではありませんが、「快を与える」か「不快を取り除く」のどちらかで売買は成立するわけで、そこへミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する「灰色の男たち」のような悪知恵の働く人たちが付け込んでくるのです。「今」に集中していると惑わされにくくなるのではないでしょうか。

3.優先するもの

某「Nつの習慣」という有名な本で紹介されている優先事項の話。重要度と緊急度の度合いで4つに区分した「やること」において、緊急かつ重要なことではなく、緊急ではないが重要である「第2領域」こそ、もっとも優先すべき事項であると言われています。

ここで、僕はヒネクレていますので別の解釈をします(笑)。無駄こそ人生の意義であり、面白みではないか。この話で言うところの「第4領域」こそ大切にするべきではないのかと思うのです。

そもそも「無駄」に関して、何を基準にどう定義するかによって変わるもので、ある視点から見れば僕が無駄だと考えているものは「重要なこと」になるのかもしれません。

「無用の用」という言葉の通り、一見意味のないことが実は重要だったりするのです。効率化、合理化が叫ばれ、徹底的に無駄を省く方が良しとされることが多い今日ですが、無駄を楽しむ心のゆとりを大切にしたい。道草こそ歩みべき大道であり、脱線こそ話の本線であり、無駄こそ生きる価値ではないでしょうか。「今何の話してたっけ?」と、脱線に脱線を重ねて会話の収拾がつかなくなっている状態って会話そのものが楽しいじゃありませんか。まさに「今ここ」にいて会話の醍醐味を味わっている瞬間だと言えそうです。

また、大人らしく真面目に行動するのではなくて、童心を忘れず「ちょっとアカンことをする」のも大切です(笑)。子供は色んなことをやらかしてくれて、善悪の判断なく無頓着に行動するもの。ただ、「アカンこと」はいくらでもするけれど、大きく道を外すこともない気がします。論語に「七十而從心所欲、不踰矩(七十にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず)」とあるように、七十歳になれば、思った通りに行動しているだけで道を外さなくなったと孔子先生は言っていますが、子供心は本来そもそも道を大きく外さないんじゃないかとも思います。ということで、大人になっても「イカにアカンことをできるか」を忘れずにいたいものです。

4.幸福と時間

今この瞬間に幸せを感じるために大切な「幸福ホルモン」の存在。幸福に関するホルモンは100種類以上あるそうですが、なかでも3大幸福ホルモンと言われる3種類、セロトニン、オキシトシン、ドーパミンに注目してみましょう。

セロトニンは、安らぎや癒し、イライラの解消、睡眠の質が向上するなどの効果があって、規則正しい生活や太陽の光、適度な運動などによって分泌されます。

オキシトシンは、やる気、快感、安心、好奇心、信頼感や社交性、記憶力、免疫力が向上するなどの効果があり、親切な行動やスキンシップ、人を褒めたり感謝したり、プレゼントを贈るなどで分泌されます。面白いのが、利他心「与えること」によって自分自身が幸福になるところ。

ドーパミンは、やる気、集中力、運動や学習効果の向上、ポジティブになるなどの効果があり、目標達成や瞑想、新しいことにチャレンジすることで分泌されます。

一言で表すなら、順に「健康」「ふれ合い」「達成感」といった具合でしょうか。

加えて、ドーパミン的な幸福と、オキシトシンやセロトニン的な幸福には「飽きる」「飽きない」の違いがあります。

赤ちゃんや飼い猫は、いつでも可愛いくて幸福感を得られ(そして、たまに腹がたつ?笑)、「ひと月経ったら飽きてきた」なんてことはありません。自然に触れて癒されることに関しても飽きないでしょう。

ところが、何かが欲しい欲求に関しては、車は3ヶ月で、家は1年住めば飽きてしまうというように、ドーパミン的な幸福感は飽きが来ます。さらに中毒性もあるため少々注意が必要です。

そこで、僕は達成感を「相対的達成感」と「絶対的達成感」に分けて考えました。前者は、言わば「競争心」によって味わう達成感で、後者は「向上心」によるものです。絶対的達成感の方に比重を置いておくことが大切であると考えます。お釈迦様が煩悩を滅しなさいと言っている欲求は「相対的達成感」にあるのではないかとも思えてきます。

自分自身を振り返って、「なぜ幸福感に包まれて生活することができているのか」を考えてみると、4つの時間があることが分かりました。その他の時間は限りなくゼロに近い気がしています。

そして、それぞれの時間は幸福ホルモンと密接に関わりがあったのです。

①自然に触れる時間(畑やお堂など)→セロトニン
②一人でのんびりする時間(読書や座禅など)→セロトニン
③夢中になる時間(仕事や創作、探求)→ドーパミン
④人と過ごす時間(家族や友人と)→オキシトシン

これらの幸福タイムは、文明や科学の発展は関係がないということ。縄文時代であっても、現代であっても同じように幸福感を味わうことができるのです。むしろ、現代はストレス社会と称されるように、モノで溢れかえっていますが、ココロは貧しい状態かもしれないと考えるなら、縄文時代の方がよっぽど豊かな時代であったのかもしれません。

このような幸福タイムは、往々にして「あっという間」に時間が過ぎ去っていくもの。「あ」という間は時間の経過が早く、「ん」と唸ったり悩んだりしている間は時間の経過が遅いということですね。ということは、「人生はいかに短いと感じられるか」が、幸福な時間を過ごしているのかということになります。そんな間で、「あんあん」言っているのが人生なのです(笑)。短く感じるほど充実感があり、長く感じるほど充実感がないのは誰もが経験されていることでしょう。

5.喜びの指標

最近「幸福度ランキング」なるものが注目されていて、日本は先進国の中でも順位が低いことが取り沙汰されます。なかなかしっかり作られている指標だと思う反面、そんな指標に踊らされるのは馬鹿馬鹿しいとも思えます。ちなみに、2023年はフィンランドが1位で、日本は47位だそうです。昨年よりも少し順位が上がりました。

ちなみに幸福度は次のような指標で測られています。

  1. 一人当たりのGDP
  2. 社会的支援(困ったとき助けてくれる親戚や友人がいるか?)
  3. 健康寿命の平均
  4. 人生における選択の自由(自分の石で決められるかどうか)
  5. 他者への寛容度(過去1ヶ月間に慈善団体に寄付をしたか)
  6. 汚職・腐敗認知度(国への信頼度)
  7. ディストピア残差(各因子最低国よりどのくらい良い状態か)

フィンランドと日本を比較すると、寄付の多い少ないや国への信頼度に差があることが分かります。そして、最後のディストピア残差というのが調べても非常に分かりにくい指標で理解に苦しみました。ざっくり言えば、マイナスの理想と現実のギャップ? と捉えてひとまず納得していますが、誰か分かりやすく教えてください(笑)。

なんにせよ、こういった指標は人類70億人全員に聞いたわけでもなければ、アンケートに対して主観的に回答するものですから、個人がアテにする必要はないということ。酒のアテには焼いたイカが良いのです(笑)。

どこかの賢い人が定めた比較の指標ではなくて、もっと別のモノサシを持つ方が良い。というこで、喜びを測るココロザシを考えてみました。

NPO京都エネルギー環境研究協会を主催されている、京都大学名誉教授の新宮先生が、喜びの度合いは対数であると仰っていました。財布に100円入っているとして、お金をもらって中身が1,000円に増えた時、10倍嬉しいか? いやいやそんなに増えないだろう。せいぜい、100円=2、1,000円=3、喜び度合いは2から3になった程度だろう、ということで喜びの度合いは桁数(ゼロの数)であるとのこと。

その考えを拝借させてもらって、「粘菌を発見する喜び」という誰にでも非常に分かりやすい(?)例えで考えてみました。

粘菌を1種類発見した時には喜び度合いが1となり、10種類発見すると10倍の10になるのではなく、せいぜい2倍程度の嬉しさであろうと思います。つまり整数ではなく桁数で勘定した方が、確かに実際の喜び度合いに近いものがあると納得がいきます。

さらに、この対数方式の喜び度合いを軸に、前述のオキシトシン効果「与えることによる喜び」を加算すると面白くなります。例えば、10種類の粘菌を所有している僕がいると仮定すると、喜び度合いは2。その場に他に9人いるとするなら、他の人たちの喜び度合いは現時点で0なわけです。

そこで、僕は他の9人の人たちへ粘菌を1種類ずつ分け与えたとします。すると、僕の喜び度合いは1に減りますが、9人の喜び度合いがそれぞれ1ずつ増えて9となります。加えて、オキシトシン効果によって、僕には与える喜びが発生し、9人に与えることによって9の喜びを得ることになります。つまり、僕の喜びは1+9で10になり、場の喜びの総和は19となるのです。これは、与えることによって、自分も周りも全体が大きく幸せになるという証明ではないでしょうか(笑)。

※注 めちゃくちゃデタラメな計算です

根本的な見方をするなら、自分の所有物なんてものは本来何もないわけです。そうであればいっそのこと、仮初の所有物は手放して誰か周りの人に分け与え、喜んで捨ててしまって、文字通り喜びに変えてしまうのが得策。これは仏教の小欲と大欲という考えに通じていて、個人的な小さい欲を制するのではなく、もっともっと大きくして、場全体の、ひいては地球や宇宙全体の欲として、喜びの総和を増やしていくことが自分は何よりハッピー、周りもハッピーになる極意ではないでしょうか。どうせ短い「あ」という間の人生を過ごして死んだ後は、今持っているモノなんてほとんど持っていけないわけですから、早め早めに捨てて仕舞えば良いのです。

そんなふうに小さな自分のことを諦めてしまえば、謙虚さが自ずと生まれてきて、ちっぽけな自分に気づいて生きやすくなるものです。

そんなことを昔の人はよく分かっていました。古典に目を向ければいくらでもそのようなことが見つかります。『方丈記』の冒頭、有名な一節にもこう書いてあります。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

『方丈記』鴨長明

滅すると聞くと、日本語では完全に消し去ってしまうことを連想しますが、仏教的な意味においては本来「制止する」「コントロールする」といった意味でした。だから、欲望を滅するというのは、欲をコントロールすると解釈する方が自然です。鴨長明は「諸行無常」を強く感じていたのでしょう。そう考えると、自分の小さな考えなんて、これまた捨ててしまって天地神仏の粋な計らいに全部お任せしてしまった方が何事もうまくいくかもしれません。「刹那滅」なんて言葉もありますが、人間の領域を超えたところに様々な働きがり、大宇宙の流れに身を委ねてしまうのが理想の生き方でありましょう。

6.小さな思考を滅する

人間1人のちっぽけな小さな思考は手放してしまえば、そこへ「降りてくる」ように神がかったアイデアや才能が自ずと発露されるもの。

三国志における魏の王であった曹操、武だけではなく文才も高く評価されていました。その次に王位についた息子である曹丕は、武の力よりも文の才能に溢れた弟の曹植を妬んでいました。あるとき曹丕は「七歩歩くうちに詩を作らなければ死刑にする」と無茶振りをしたのですが、それに対して曹植は見事な詩を読み上げたそうです。これが有名な「七歩の詩」。

zhǔ dòu rán dòu qí
煮豆燃豆萁(豆を煮るために豆がらを燃やす)
dòu zài fǔ zhōng qì
豆在釜中泣(豆は釜の中で泣くような音を立てる
)
běn shì tóng gēn shēng
本是同根生(もともと一つの根から生じたものなのに
)
xiāng jiān hé tài jí
相煎何太急(どうしてこんなに酷くいたぶるのですか)

『七歩の詩』曹植

曹丕と曹植、自分たち兄弟を豆と豆殻に例えて嘆きました。その見事な詩によって、死刑を免れられたと言われています。たった七歩歩くうちにこのような詩を作るためには、思考によってでは到底できないのではないでしょうか。元ネタの詩があってそれをもじったとも言われていますが、これこそ小さな自分の思考を捨て去って、そこへ神がかった才能が降りてきた、神様が天下りしてきたとしか思えませんよね。

この詩を読んで、僕は過去の自分を思い出しました。小さい頃、母親が電話しているときにしつこく話しかけ、こっぴどく怒られたときのこと。

Piàn kè shī / Zhī jí
片刻诗(刹那の詩)/ 知吉

Wǒ bèi pī píng kū
我被批评哭(僕はしかられて泣いています)
Wǒ de māmā shuō
我的妈妈说(お母さんはこう言いました)
Shuō Shì ń huò sǔn
说是嗯或损(ウンとかスンとか言いなさい)
Wǒ huí dá kuī sǔn
我回答亏损(僕はスンと答えました)

※中国語学習2ヶ月目の貧弱な、漢詩ルールも守れていないけない漢詩ですがご愛嬌

怒られて泣いて黙って何も言わないでいると「ウンとかスンとか言いなさい!」と言われ、ぼくは咄嗟に「スン」と返事すると、母親は笑ってしまい許してもらえたのです(笑)。頭で考えていないからこそ気の利いた返しができたものだと思います。普段の会話でも考えて笑わせようとしているより、何も考えずに勢いで喋っている方がドッと笑いが起きたりしますよね。やはり、小さな思考は早めに捨ててしまって、あとは神様の降臨を待つのが良いようです(笑)。

7.真正の方針

夏目漱石の『草枕』に、次のような一節があります。

美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。興来れば興来るをもって方針とする。興去れば興去るをもって方針とする。句を得れば、得たところに方針が立つ。得なければ、得ないところに方針が立つ。しかも誰の迷惑にもならない。これが真正の方針である。屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当防禦の方針で、こうやって観海寺の石段を登るのは随縁放曠の方針である。

『草枕』夏目漱石

この記事の冒頭「1.具体策より方針」の帰着点がここです。何事も縁、すなわち神仏の計らいに委ねて物事に拘らない生き方こそ、真の自由の境地。そうすれば如何なる環境にも嘆かず、幸福に生きていけるのではないでしょうか。

そんな自由な境地、これもまたあちこちの古典に溢れていまして、『逍遥遊』もまた然り。

もう一つ、僕の大好きな言葉「此土寂光の妙趣」。

非常に言い得て妙な表現でして、悟りを開いてすぐに極楽浄土に直行するよりも、2度3度くらいは俗世界を輪廻することを楽しんでから浄土へ赴きたいといった意味です。井上円了の『通俗講義 霊魂不滅論』に出てくる言葉なのですが、僕なんかは極楽浄土って退屈そうだとしか感じなくて、この現世でいろいろ起こる出来事を体験している方がよっぽど楽しいと思ってしまう方なので、非常に深く共感できる言葉であります。

どうせ人生思い通りになんていかないわけですから、その思い通りにならないことを如何に愉しめるか? これが幸不幸を分ける分岐点。お釈迦さまは「人生は苦である」と言い表し、これは苦しみという意味ではなく「思い通りにならない」ということを説きました。思い通りにならないと悟ることが、幸福への道なのです。

以上のような、無用之用、随縁放曠、垂天之雲、此土寂光といった、それぞれの妙趣をいかに味わい愉しむか。これぞ「人生の醍醐味」ではないでしょうか。

無用之用に用あり
垂天之雲たるが如く
随縁放曠に方針を立て
此土寂光の妙趣を味わう
是れ人生の醍醐味なり

ぜひ「醍醐味」という妙趣を味わって生きて参りましょう。

食べかすも
 昨日も明日も
    味気なし
今を味はひ
  よよいの酔い