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和の情 テーマ「詩」

 目次

  1. 詩について
  2. 薄い味と濃い味
  3. 音楽と騒音
  4. 本願からの行動
  5. 縁を生きる

 

詩について

現存する世界最古の詩はシュメールの『ギルガメシュ叙事詩』で、粘土板などに楔形文字が刻まれていました。

日本では、奈良時代ごろから和歌が詠まれるようになり、これは詩の形態の一つであると考えても問題ないでしょう。本地垂迹によって密教と神道が習合し、中世に入ると「和歌陀羅尼観」という考え方が起こり、和歌には密教の「真言」と同等の効果があると捉えられるようになりました。鎌倉時代の仏教説話集である『沙石集』などにその内容が残されています。

和歌ノ一道ヲ思トクニ、散齪鹿動ノ心ヲヤメ、寂然静閑ナル徳アリ。又言スクナクシテ、心ヲフクメリ。惣持ノ義アルベシ。惣持ト云ハ、印、羅尼ナリ。我朝ノ紳ハ、佛菩薩ノ垂跡、慮身ノ随一ナリ。素蓋雄奪、スデニ出雲八重ガキノ、三十一文字ノ詠ヲ始メ給ヘリ。佛ノコトバニコトナルベカラズ。天竺ノ陀羅尼モ、只、其國ノ人ノ詞也。佛コレヲモテ陀繹尼ヲ読キ給ヘリ。
『沙石集』

和歌に見られる5文字が、地水火風空の五大に相当するという説もあったり、真言として和歌を唱えたりすることもあったようです。実際、僧侶が和歌を詠むことは珍しくなく、真理をそこに込めていたのだと思われます。

単なる文章と詩の違いはいったい何なのか。明確なルールはありません。ところが不思議なことに、私たちは一つの文章を読んだ時にそれが「詩」なのかそうでないのか、感覚的に判断することができます。また、芸術性のあるなしや作品としての良し悪しを気にしなければ、詩と文章を書き分けることも容易にできます。

一定のリズムや押韻といった、一種の形式を持たせたものが詩であると言えます。そういう目で読むと、文学作品の中には、詩的な雰囲気を帯びたものが多くあります。有名な、漱石の『草枕』の冒頭文は僕も好きなのですが、まさに詩そのもの。

さらにもう少し読み進めていくと、「詩」についての考え方が語られています。

以上の部分をまとめると、詩とは「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写す」ということ。

その目的は「束の間でも住みよくし、人の心を豊かにする」ことです。

さらに、詩はどうやって作るのか。「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる」つまり、結局いくら安らかな場所を探したとて、極楽はこの世になはいのだと諦める。そこに詩が生まれる。ただまのあたりに見ることによって詩が生きてくるのだそう。

 

このようなある種の「諦め」の境地は、浄土仏教の他力救済の世界観と非常に近いものがあります。どうやったって自力ではどうにもならないから、弓を力一杯引いて一気に脱力するかの如く、力が抜けた状態になってはじめて、他力たる陀仏の本願力へと全身を委ねられるのです。

 

薄い味と濃い味

先月、札幌にある「北海道文学館」へ訪れました。北海道にゆかりのある文学者たちの歴史に触れ、直筆の作文用紙を見て、この人はこんな字を書いていたのかと思いを馳せていました。

北海道出身というわけではないのですが、昭和を代表する映画監督の一人、『東京物語』で有名な小津安二郎の本が販売されていました。

北海道文学館が出版している本で、何人かの執筆者から構成されており、そこにあった一文「映画を読む」という表現に心惹かれました。映画を観るのではなく「読む」のか。小津安二郎の作品はいくつか観ましたが、なるほど、確かに「読む」と表現する方がしっくりくるような気がします。

最近の映画では当たり前になった派手な演出や、CGの迫力ある映像、3Dのみならず4Dなど、それも楽しみ方の一つだとは思いますが、どうもそういったものに慣れてしまうと、素朴なものでは満足できなくなるおそれがあります。欧米化した濃い味付けの食事に慣れると、和食の薄味では物足りなくなるように。

日本には素朴な良さが溢れているのに、往々にして日本人がそれに気が付かないことが多い。日本の映画がアカデミー賞で評価されているのに、当の日本人は見向きもしなかった・・・・・・というのはよく聞く話。

詩歌の良さは、間違いなく薄味の楽しみだと言えます。小津が映像詩人と呼ばれるのであれば、その作品は「時を与えられた詩」と呼んでも差し支えないでしょう。改めてそういった視点を通して映画を観てみると、否、読んでみると、また新たな味わいとの出会いが訪れそうな予感がします。

先日は、不定期ですが恒例になった数人での映画会に参加して、木下惠介の『喜びも悲しみも幾歳月』を鑑賞しました。ぼくは昭和の日本映画はもちろんリアルタイムでは知らず、監督も黒澤明と小津安二郎ぐらいしか名前は思い浮かびません。木下恵介はその時はじめて知りました。みんなそれぞれの作風があって味わい深い。ですが、今の濃い味付けの映画に慣れてしまっていると、退屈にしか感じられないかもしれません。

『お茶漬けの味』や『秋刀魚の味』の「味」を感じられないなんて勿体無い。我々は素朴な味をしっかり感じられる感性を忘れないようにせねばなりません。

北海道文学館では、もう一つ新しいご縁がありました。画家でもある加清純子という作家。わずか十九歳という短い生涯であったにも関わらず、天才少女画家と呼ばれていました。

この書籍に掲載されている作品をいくつか読みました。若干十八歳の女性が描いたとは思えない、どこまで深い闇を感じさせるような世界観と、独自の視点、構成力、そして圧倒的な表現力に度肝を抜かれました。いったいどんな人生を送ればこのような作品を生み出せるのかと、切ない気分にもさせられました。

ぼくは「知る人ぞ知る」に対して、映画や文学作品に限らず心惹かれるのですが、そういった出会いがあると非常に嬉しくなります。そんな出会いにはただ感謝しかありません。

さて、「薄い味」と「濃い味」について、前者は「読む」という能動性が必要であり、後者は受け身で体験させられる、という特徴があります。カラーはいけなくて白黒だから良いというわけではないですし、CGがダメなわけではありません。ただ、白黒に限らず古い映画は外国のものであろうと、派手さがない代わりに奥深さがあるものが多いと思います。

古い映画や詩歌、文学や芸術を楽しむということは、得てして能動的に関わっていくということ。それに対して、現代のエンターテイメント、CG映画、派手な音楽、オーディブルなど耳で聞く本、ゲーム、youtubeに至るまで、これらは受動的もしくは強制的に(感情を刺激されて)楽しくさせられている場合がほとんど。

これは、人智を超えた創造の領域である「芸術」と、マーケットで売上を上げるため意図的に作られた「商品」の差ではないしょうか。

どちらかが良くてどちらかが悪いと区別するものでもありませんが、やはり和食の素朴な味を忘れてはいけないと警鐘を鳴らしておきましょう。

 

音楽と騒音

さて、個人的に三月は音楽に触れる機会が多かったせいか、考えさせられるテーマとなりました。動画を制作する機会があって映像に合う音楽を探したり、ある歌手のコンサートに誘わて参加したり、息子と二人で映画『ドラえもん のび太と地球シンフォニー』を観に行ったりしました。最近のドラえもん映画も、例に漏れずCGが駆使されて派手な演出が年々増えています。

映画館でドラえもんを観ている時、感動したシーンがありました。若干のネタバレになりますが、この記事読んでいただいているような方は、おそらくドラえもんの映画を観ないと思うので問題なしということで(笑)。

そのシーンとは、のび太が「あらかじめ日記」という道具を使い、文章を間違えて記入したせいで、丸一日地球から音楽が消えてしまうところ。音楽が消えたために、お母さんの子守唄や、ラジオから流れるBGM、学校での歌や演奏、路上ライブをする若者、そして「蝉の鳴き声」がなくなってしまう描写がありました。観た瞬間、この映画の作者は、蝉の鳴き声を音楽と捉えているのだと嬉しくなったのです。

虫の鳴き声がわかるのは日本人の特性だとされています。そのため、嵐山にある通称「鈴虫寺」では、鈴虫の鳴く音を騒音とされ、Noisy temple(騒音寺)と呼ばれているのだとか。ひどい話ですね。けれど、感性の違いなので仕方がないのかもしれません。蝉の鳴き声は無論、騒音としてただやかましい音としか見做されないらしい。

鈴虫や蝉の鳴き声、虫の声に限らず生き物や自然現象から発せられる「音」を、あなたは騒音と感じますか? それとも音楽と感じますか? 音楽と感じられる心は日本の情緒なのでしょう。まさしく「和の情」です。

日本には蝉の音を表現した俳句はたくさんあります。最も有名なのは芭蕉の「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」でしょうね。他にも色々あります。いくつか例を挙げてみましょう。

日本人にとっては当然ですが、蝉も鈴虫も季節を感じさせてくれる音として捉えられているのです。それだけで「なんかいいな」って思いますよね。

その理由については、虫の声を右脳で捉えるのか左脳で捉えるのかの違いであることがわかっています。

 

本願からの行動

最近、縁あって浄土真宗の講座に通っています。得度を受けたのは真言宗ですが、ぼくは特に宗教宗派にこだわりなく、真理をさまざまな捉え方で表現したいので気にしません(笑)。

そこで書いて学ぶ本をオススメされたので、毎日少しずつ正信偈や和讃を書写し、『歎異抄』を読んでみました。

親鸞は自分の考えに関してはほぼ何も残しておらず、経典の注釈によって教学を体系立てるような執筆に留めていました。そのため親鸞の人間性を知るには、弟子の唯円が著した『歎異抄』を読む必要があります。

ぼくから見える親鸞は、謙虚さの極端にいるような人。謙虚を通り越して横柄にさえ感じる(笑)。親鸞は自分には特に才能があるわけでもなく、修行をして悟りを得られることもなく、何も出来ない愚かな凡夫であると自覚しました。ゆえに、阿弥陀仏の本願、即ち「他力」によって救われるしか道がないと見出したのです。

宗派としても、人間的にも、対角の位置にあるのは真言宗、空海ではないかと思われます。

空海は、処女作の『三教指帰』をはじめ、特に『秘蔵宝鑰』や『十住心論』において、他宗教、他宗派を下に置き、巧みな表現力によって圧倒し、最上位に仏教、真言宗を置き、確固たるものにしました。空海は飛び抜けた頭の良さ、語学、文学、教育、あらゆる実業から、人や世の中を動かす能力にまで長けた大天才。

一方で親鸞は、『教行信証』をはじめ偈文なども残していますが、なんというか、面白みには欠けるし、人間的に硬い気がしています。空海が『十住心論』で十段目に自分の教学を置いたのに対して、たとえば親鸞なら、自身を一段目より下の「0段目」に置いて、「私は誰にも敵いません」と究極の謙遜をしたうえで、しかし0段目にこそ全ての人が救われる唯一の道があると確信を持っている。なんとなくイメージが湧くでしょうか? 最も謙虚でありながら、且つ最も図々しいのです(笑)。

また、「一字に千里を含む」つまり、梵字一字には千の理(ことわり)が含まれているという真言宗の考え方に対して、浄土真宗では「念仏には無義をもって義とす」(『歎異抄』第十条)という専修念仏の教えが述べられています。頭で理解しようとするとこんがらがりますが、念仏においては、意味づけを超えているということで、これも謙虚な位置から全てを呑み込んでいくようになってな気配が感じられます。

自力を離れるわけですから、修行をしなくても、努力しなくても救われて浄土へ行ける、と解釈されてしまうのも至極当然。悪いことをしても念仏さえ唱えていたら救われると、人々は荒れていきました。それに対しては「本願ぼこり」という言葉で反論されています。「本願ぼこり」とは、悪人も見捨てないという阿弥陀仏の本願につけあがること。「薬あればとて毒をこのむべからず」すなわち、薬があるからといって好んで毒を飲むやつがあるかと戒めています。

自力と他力については、「人為的」か「自然的」かという違いに似ています。作為的な言動や行動は自我によるもので、超自然的な思考や行動は阿弥陀仏の本願力から発せられていると考えることができます。純粋な真心とも言えそうです。

 

前述したドラえもんの映画を、昼過ぎに見終わって、息子がうどんを食べたいと言うので、某うどんチェーン店へ行きました。その天ぷらコーナーで、野菜のかき揚げを取ろうとした時、スタッフの方から
「今もう揚げたてが出来ますんでちょっと待ってください〜」
と声をかけられたらので、少しだけ待って、ありがたく冷めたかき揚げではなく、揚げたてのかき揚げをいただきました。

そして食べながらふと考えました。ぼくとしては嬉しかったけど、その代わりにすでに置いてあった冷めたかき揚げは、いずれ誰かが食べなくてはならない。そうすると、ぼく一人がおいしい思いをする、つまり一部の人にだけ偶然タイミングが良かった場合に揚げたてが当たるのではなくて、既に出来上がっているものから順番に取っていった方が、全員がそれなりに温かいかき揚げを食べることができて、全体の場として喜び度合いの総数は大きくなるのではないか。一握りの人が揚げたてを独占することは、結果として喜びの総数は減るのではないか、そう考えたのです。

これはエントロピーの考え方ですから、一応ぼくも会員である「京都エネルギー・環境研究会」を主催されている京都大学名誉教授の新宮秀夫先生の話を思い出しました。エントロピーとは対数で表すことができる喜びの度合いで、喜びの度合いとはまさに対数で考えられるというものです。

そこで単純な数値に置き換えて、かき揚げの出来たてを一部の人が食べてしまうのか、出来た順番に食べていくのか、どちらが「場の喜びの総量」は大きいのか計算してみることにしました。

まず、すでに出来て冷めているかき揚げが場に3つ残っている状態で、5つのかき揚げを新たに作り、かき揚げは10分で完全に冷め、2分おきに8人が食べると仮定します。

出来たてを1分以内に食べる喜びを、時間が経つほど減少していくため分数で
1/10^1
と表し、喜びの度合いはその桁数に置き換えると、1/1になるように設定します。

次に、完全に冷めたかき揚げを食べる際、冷めたからといって喜びはもちろんゼロにはなりません。ですから、10倍の10分経過した時は
1/10^10
とすると、同じように桁数で置き換えると1/2となります。

実際、冷めたからと言って喜びは半分も減らないかもしれませんが、とりあえずそういうことで(笑)。

2分置きに合計8人が食べる設定なので、10分で5人が食べることになり、間をとって

1/1‥‥1/1.25‥‥1/1.5‥‥1/1.75‥‥1/2

と徐々に喜び度合いは減っていき、10分経過すると暖かさは変わらないので、以降は1/2となる。まぁ、半日も置かないという設定なので、温かさ以外の劣化はなしとしてください。

そして、二つのパターンを考えてみます。

Aパターンは、ぼくがしてもらったように、冷めたかき揚げを差し置いて、出来たてが揚がったタイミングでそれを食べる場合。

Bパターンは、出来立てが揚がっても、古いものから順に食べていく場合です。

Aの計算式は
1/1+1/1.25+1/1.5+1/1.75+1/2×4=5.04(小数点第三位以下四捨五入)

Bは
1/2×3+1/1.75+1/2×4=4.07(小数点第三位以下四捨五入)

 

先生にはとても言えない、怒られそうなめちゃくちゃな計算ではありますが、この仮定の場合では、出来たてを一部の人が優先的に食べて喜び度合いが上がれば、全体の場として、つまり店がお客さんに喜んでもらえる総量としては、大きくなる。つまり、出来立てが揚がれ場ば、それを優先的に食べてもらった方が満足度が高くなるということです。

ならば、ぼくは言われた通りに出来立てのかき揚げをもらって良かったのだとホッとしました(笑)。

このような作為的ではない、おそらくただ「せっかくなら出来たてを食べてほしい」という純粋な想いは、弥陀の本願力からやってくるのかもしれません。

天からの働きかけならぬ、天ぷらの粋なはからいであったというオチでした(笑)。

うどん屋のスタッフの女性はまさに「自然法爾」そのものだったのでしょう。

 

縁を生きる

偶然とはありえるのか、ありえるならばどういった原理なのかが気になって考えてが膨らんでいきました。そこで、九鬼周造の『偶然性の問題』に手をつけたものの少々ややこしくて投げ出してしまいました。その内容をもう少し分かりやすく解説したうえで、独自の哲学を構築しようと試みられたであろう『邂逅の論理』を読んでみました。

思いがけない偶然の縁とは一体何なのか。原理を紐解くことを期待していたのですが、そこまでは至らず。ただ、そのなかで人間同士の「水平のあいだ」と神との「垂直のあいだ」を開く「二重の出会い」という表現は興味深かったです。

ある意味、社会の役に立つ行動は菩薩行であり、人間が生きている以上、多かれ少なかれ何かの役に立つ行動を必ずするもの。ということは即ち、全ての人はそもそも菩薩なのであると考えています。そして、その菩薩が時には厳しい姿で、時には優しい姿で、自分にとって必要な形で現れる。これが思いがけない出会いたる「邂逅」なのだと納得ができました。それが縁を生きるということなのでしょう。

「水平のあいだ」は自力的、「垂直のあいだ」は他力的とも言えるかもしれません。

また、縁に委ねることこそ、他力を信じて生きるということに他なりません。

自我によって、目標や夢を設定し、それに向かって励むことは大いに結構なのですが、ひとつ気をつけたいのは、それが叶わず失敗に終わった時、イコール不幸せであってはならないということ。夢や大きな目標は達成できない人が圧倒的に多い。しかし、達成することを良しとして、うまくいかなかった場合を受け入れらないと、人生は本当に辛い。

そうではなく、信心によって縁に委ねるということが大切であろうと思います。縁に委ねるということは、結果はなんだって良いのです。目標へ向かって進めども、失敗してもオッケー、道を逸れてもオッケー。

今ある現状や、起こる出来事を縁として、全部そのまま受け入れる、というのが他力に生きること。

ただ、これはこれでなかなか大変なことも多いわけです。言うなれば、株式会社阿弥陀仏という超ブラック企業に勤めて、残業代なんてもちろんないし、拘束時間は起きているあいだずっと(笑)。結構過酷な指令が出されて、思い悩むことも多い。

それでも、そんなワンマン他力社長をただ信じて従うことは、有無を言わせず確かな幸福を得ることでもあるのです。

これは勤めている人にしかわかりません。

こんな感じあんな感じと、感覚的に伝えるしかないのです。ですから、『正信偈』はまさにそういった表現しか出てこないのでしょう。

委ねるというのは、何もしないのとは全く違います。むしろ、何でもするから忙しいったらありゃしない。作為的な自我ではなく、自然法爾の働きに委ねて、行動の原理とするのです。

自ら修行をする自力、自分の力では到底及ばないと自覚して他力に委ねるのか。それは白黒はっきりさせる必要はなくて、曖昧になっていても良いのではないかと思っています。

他力にすがって自宅待機してるのは「本願ぼこり」でしかない。浄土から向かいに来てくれるからといって待っているのではなく、最寄駅あるいはもう一駅ぐらい自分の力で歩いて行ったら良いのです。

結果、どちらにせよ救われることに変わりはないのでしょうが、その一駅歩いていくことこそ、ぼくは人生の醍醐味であると確信しています。薄い味付けがゴロゴロ転がっているんですよ。

 

最後にまた草枕の詩を拝借して、自分なりに解釈した詩をもって締めくくりたいと思います。

どこへ越そうと住みにくいと悟り、
ありがたい世界をまのあたりに見る。
人の世を長閑にし、
人の心を豊かにしながらただ進む。

結果なんでもいい。
どれでもいい。
どっちでもいい。
それがいい。
それだけでいい。
それが縁。

自ずとそこに詩が生まれ、画ができるような生き方こそ、人間の本来あるべき姿でありましょう。

人生という山路を登りながら、こう考えれば良いのです。