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和の情 テーマ「命」

 目次

  1. 前世はあるのか
  2. 来世はあるのか
  3. 命の始めと終わり
  4. 使命を果たす

 

前世はあるのか

「前世は〇〇だった」
と言う人、たまにいますよね?笑

人に言われてそうだったんだと鵜呑みにする態度は考えもので、根拠のない話や他人の当てずっぽうに惑わされるのではなく、自分自身の直感を研ぎ澄まして拠り所にしたいものです。

過去や未来について、バラモン教やジャイナ教、仏教では永遠流転する世界観を前提としています。輪廻の思想自体は仏教以前からありますし、西洋でも古代ギリシャの哲学者ピタゴラスが輪廻転生を提唱していました。ユダヤ教やキリスト教では輪廻思想はありませんが、復活や死後の世界は説かれています。

現代では、過去世や未来世があると信じている人の割合はどのくらいなのでしょうか?

国際社会調査プログラム(International Social Survey Programme)通称ISSPは、2008年に「宗教意識Ⅲ」という調査を行いました。その際、質問用紙に書かれた内容は下記の通り。

Do you believe in reincarnation?- being reborn in this world again and again?
(あなたは輪廻転生を信じますか? – 何度もこの世界に生まれ変わると思いますか?)

生まれ変わりが説かれていないにも関わらず、イスラエルのユダヤ人に関しては53.8%が「輪廻転生はあると思う」と回答し、日本では42.6%の人が輪廻転生はあると回答したそうです。

世界的に見ると、3〜5割程度の人が輪廻転生はあると信じているようです。

科学の発展した現代において、輪廻は死の恐怖や苦しみから逃れるために作られた迷信だと考えられていますから、「死後は無に帰す」という唯物的な考えの方が優位であろうと思いきや、半分に意見が分かれていました。面白いですね。

いずれにせよ、いかに過去生の記憶を持っていようが、未来を霊視しようが、あるともないとも証明することは不可能であることに変わりはないけれど、なんとか客観的に捉えることはできないものでしょうか。

一応、定義を明確にしておくと、「前世」は、現世の一つ前の一生で、「来世」は現世の一つ先の一生のこと。「過去世」は、前世を含む過去のすべての生、「未来世」は来世以降のすべてです。

それでは、前世を考える上でポイントとなる「不平等」について考えてみたいと思います。

 

平等と公平

「平等」と「公平」、その違いは分かりますか?

平等は、かたよりや差別がなく、全てのものが一様で等しいこと。

公平は、かたよらず、えこひいきのないこと。

僕は、平等というのは厳密には現実でありえない理想の概念であると思っています。だって、一つとして同じものの存在しない自然界では成り立ちませんから。全く同じものをまったく同じように分配することは、たとえ均一化された工業製品であろうと不可能だからです。二つに分けた時点で全く同じはありえない、数学上の概念なのです。

他方、公平に関しては「意識」の問題ですから、現実世界で容易に実現できます。平等にすることは不可能だとしても、かたよらないように努めることはできるでしょ?

私たち現世に生きる人間は、常に不平等の中にいます。人と全く同じものがありますか? 1日24時間は誰もに平等に与えられていると言いますが、僕はそう思いません。時間は相対的であって絶対的な尺度ではないし、仮に時計の針の動きはみんな平等であろうと、その密度は違います。一歩譲って1日という時間の単位は平等であったとしても、人それぞれ寿命は違いますから、与えられた時間はやはり平等ではありません。

単純に捉えれば平等に見えることもあるかもしれませんが、この世は複雑に無数の事象が絡み合って成り立っており、時間で区切るという考え方も概念の域を出ないのです。

不平等について捲し立てたいわけではなくて(笑)、人は生まれた瞬間から不平等であることを確認しておきたかったのです。生まれる時間も場所も家庭環境も違います。まったくの平等があるとしたら、人と人が完全に重なっていなければ成り立ちません。

では、なせ私たちは不平等なのか?

普遍の真理の一つに「因果の道理」がありますね。結果は必ず原因に依って生じます。仮に生まれた瞬間がゼロ地点だとするなら、まったく平等でないとおかしいわけです。原因に違いがあるから「不平等に生まれる」という結果が起こるのです。

その原因はどこにあるのか?

生まれる前にしかありえません。

生前の、過去生に「因」があるから、生まれた時点での「果」が変わってくるのです。

しかし不平等は、両親や祖父母、先祖のこれまでの行いが因となっているとも考えられますから、過去世の証明にはなりません。あくまでもあるのは可能性だけです。

また、本人の原因だけで結果が決まるものではありません。因と果の間には「縁」がありまして、本来は「因”縁”果(いんねんか)」の道理と言います。

「因」とは直接的な原因で、「縁」は言うなれば間接的原因。因縁が組み合わさって果が生じるのです。これが因縁生起(いんねんしょうき)です。

南方熊楠は一つの因果の直線Aと、他の因果の直線Bの交点Cが「縁」であると捉えました。

自分は勉強したから(因)、受験に合格した(果)。

という事象を例にするなら、合格には他の要因も無数に絡み合っています。

自分は勉強をして(因)、家族が応援してくれて(縁)、塾の先生に分からないところを教えてもらい(縁)、電車が遅れずに当日運行していたおかげで(縁)、受験に合格できた(果)。

家族が合格してほしいから応援するという行動を起こし(因)、我が子の合格を喜ぶことができた(果)。

といった具合に他の縁も同様です。他人の縁が自分の因果の直線に作用していることが分かりますね。縁は他人に限らず、天地自然のすべてがその要因となりえます。

ゆえに、良い行いをしたからといって良い結果が起こるわけではないんです。縁が無数に作用してますからね。

要するに、過去世の自身の行いは「因」、両親や祖父母、先祖の行いを「縁」として生まれてくるのが今世の我が身。ゆえに私たちは、過去世の行いの違いによって不平等に生まれてくると結論づけることができます。

唯識論

唯識論とは、「識」という「心の働き」が元となってこの世界を構成しているという思想体系です。それが8つに分類されて「八識」と呼ばれています。

八識のうち、もっとも深部にあるのが「阿頼耶識(あらやしき)」。アーラヤとは貯蔵する意味があり、別名「蔵識(くらしき)」とも呼ばれます。チボリ公園ちゃいますよ(笑)。

ちなみにヒマラヤは、雪を意味する「ヒマ(Hima)」と「アラヤ(Alaya)」を組み合わせた言葉で、「雪の貯蔵庫」とか「雪の家」のような意味を持っています。

すぐ余計なウンチクに走ってしまうので話を戻しましょう(笑)。

八識が阿頼耶識で、その上に七識である「末那識(まなしき)」があります。阿頼耶識をユングの集合的無意識だとすれば、末那識はフロイトが提唱した個人的無意識の領域。この2つは潜在意識の領域ということですね。

6つ目が「意識」。これは無意識ではない覚醒した意識領域、顕在意識。起きている今のみなさんの意識です。

そして、「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」を合わせて五識または前五識と呼びます。読んで字の如く五感のことで、般若心経でも同じみの「眼・耳・鼻・舌・身・意」は、人間の意識的領域である六識を表しているわけです。

以上の八識によって人間は構成されているというのが唯識の世界観。

そして、私たちの行いは「種」として阿頼耶識に永久的に貯蔵されていきます。その行いは、身業(しんごう)、口業(くごう)、意業(いごう)と三種に分類され、言わば行動、発言、思考によって業(ごう)が作られるのです。カルマとも呼ばれますね。その業の溜まる場所が阿頼耶識であり、溜まった業の一つ一つを「種子(しゅうじ)」と呼びます。

八識以外は死ぬと消滅してしまうのですが、阿頼耶識にある種子からまた新たな生命が生まれます。

私たちの生前の行いは阿頼耶識に種として蓄積されており、新しく生まれる際、その「種」が花開き「果」を結びます。生前の行いがそれぞれ違うのは当然ですから、生まれた時に不平等なのもごく自然ということが言えます。

ちなみに、唯識の中では八識までしかありませんが、のちに九識、十識なども登場しました。九識は仏性のことで、阿摩羅識(あまらしき)と言い、山川草木悉有仏性という、人間や動物だけでなく自然のあらゆるものに仏性があるとする法華経思想の中で生まれたと思われます。十識は数学者であった岡潔が日本人ならではの情緒、真情(まごころ)を発見したと著書に書いています。また、厳密な出自は不明なのですが、真言宗において乾栗陀耶識(ふりだやしき)と称される十識が置かれているようです。。

とっても善い人で、両親も善い人で、悪いことなんてしていないのに早死にしたり、苦しんで死んだりすることは珍しくありません。本来はそもそも善悪と分別をつけることが間違いなのですが……またそんな話をし出すと脱線が止まらないので踏みとどまります!笑

現世でどれだけ善い行いをしようとも、結果として現れるのは阿頼耶識の種子によって。ですから、もしかしたら過去生で、早死にしたり苦しい死に方をする業を積んでいたかもしれないと考えれば納得がいきます(無論、そんなことは本人や家族には言えませんし、だから悲しむ必要がないという意味ではないと断っておきます。あくまでも理論的に納得できるかどうかという話ですので誤解しないでくださいね)。

話をまとめると、過去世の「業」が現世という結果を生み、現世だけでなく過去世も含め蓄積されたた「業」によって、未来世に繋がるということです。

以上のことから、現世の不平等は過去世があることの証明として、十分条件とまではいかずとも必要条件としては成り立ちそうな気がしてきました。

 

来世はあるのか

今度は、未来に視点を向けてみましょう。

死後の世界はあると思いますか?

前述の通り、意見は半分ぐらいに分かれるのでしょうか(笑)。

死後の世界があるかないかという命題において、瞑想や夢、神秘体験などを通して現実と違う世界を見ることはいくらでもありますが、実際は脳内の錯覚かもしれないし、それを他人に証明することはできません。あくまでも主観の世界です。また、同じような体験をした人と情報の擦り合わせはできますが、身体の構造上認識した情報が似通っているだけなのかもしれません。

つまり、いかにしても死後の世界を証明することは、自分が死んで経験しない限り不可能なのです。

分からないなら分からないなりにどう考えるべきなのか。パスカルは「4つの賭け」という形で、死後の世界についての証明はさておき、合理的にどう生きるべきなのかを示しています。

パスカルが考えた賭けは、下記の4つのパターンに分類されます。

A:神はいないと信じて生き、死後に神がいなかった場合は、思い通りだったのでプラス1(+1)。

B:神はいないと信じて生き、死後に神がいた場合は、裁きを下されるということでマイナス1(-1)。

C:神はいると信じて生き、死後に神がいなかった場合、生前は道徳的に生きていたわけで損はないだろうということで、神がいなかったとしてもせいぜいプラスマイナスゼロ(±0)。

D:神はいると信じて生き、死後に神がいた場合は、思い通りだったのでプラス1(+1)。

こう分類すると、神はいると信じて生きておけば最悪の場合でもマイナスにはならない。だから最も合理的だという考え方です。

これを死後の世界があるかないかで考えても同じことで、やはり死後の世界はあると考えて生きた方が合理的だと思うのです。というより、こんなに理屈をこねくり回さなくても、単純に死んだ後も何かしら続いていくものがなければ、僕は今を生きる意義を見出せません。完全に無になってしまうのなら、今何のために生きるのか? そう考えると、死後の世界はあってもらわなくては困るのです(笑)。

ただ、自分の個人意識が今と同じように死後もあるとは考えていません。霊魂があったとしても肉体を離れると自我は失うでしょう。これは前述した唯識の世界観にも通じます。

 

素領域と光子

ノーベル賞を受賞された湯川秀樹の「素領域理論」も興味深いです。

物質の最小単位である素粒子は素領域と呼ばれる場の中に存在する。直進して見える光も、実は光子という粒が泡のような素領域のなかを連続的に移動することによって、直線に見えているだけなのだそう。

素領域をもとに考えてみましょう。下図の黒い泡が素領域。

そして、素領域とは物質が存在できる場、つまり「この世」です。対して、素領域の外は「あの世」。実は「あの世」は目の前に存在している世界だということです。そんな素領域の外に霊体があるわけですね。

素領域の中に素粒子があり、あらゆる物質を構成しています。私たちの肉体もそうやって出来上がっている物質の一つ。

この世の肉体と、あの世の霊体が重なった状態、それが生きている人間なのです。死ぬと肉体と霊体が分離され、消滅するのではなく組み合わせが変わるだけということです。

霊魂の不滅に関しては、古くはソクラテスが死の間際に「霊魂不滅の証明」の話を弟子に残しており、井上円了の『通俗講義 霊魂不滅論』、下村孝太郎の『霊魂不滅観』など、霊魂の不滅に関する書籍は多数あります。ざっくり共通するところを雑にまとめるなら、生の反対が死であるなら、生まれるということは死ぬことでもあり、死ぬことは生まれるということになる。肉体は死後、また原子単位に分解されるが、完全な消滅はない。であれば、霊魂に関しても分解されることはあっても完全に消滅するとは考えにくい、だから霊魂は不滅なのだという結論。霊界の法則がこの世と違っていたら成り立たないのですが、なんとなく納得しておくことにしましょう。

では仮に、生前と死後の世界はあるとして、その命の根本的な始まりは一体どこにあるのか? また、未来に命はどこへ向かっていくのか? そういったことも気になるところです。しかし、これに関してはもはや人間の立ち入れる領域ではありません。お釈迦さまは、その最初と最後について、それは考えれらない領域だから考える必要はないと説きました。考えられない、思議できない、ということで「不可思議」と名付けたのです。

ここまで、いかにして霊魂は不滅なのかという肯定的な思想や理論をもとに考えてみましたが、死は即ち無に帰すという唯物論派の反対意見もあります。生まれ変わりがあるとすれば、人口が増えているために魂の数が合わない、ゆえに生まれ変わりなどない。また、生命は偶然の産物であり、物質に意識が宿っているだけで、肉体が滅びて霊魂だけが残るはずがないといった主張です。

これらの否定論に反駁することで、もう一歩進んでみましょう。

まず、一つ目の「魂の数が合わない」というのは、魂は絶対的な個体だとすればその通りですが、魂が絶対的な個ではなく、水滴のように粒の数は時によって変動し安定していないものだと考えられます。水滴は、水滴であるとき個物として存在していると言えますが、水の入ったコップに落ちると全体と混じり合います。そのコップからまた水滴を取り出すと、まったく同じ水滴は取り出せません。質も量も変わるでしょう。水滴は言わば私たち人間、コップの中の水が阿頼耶識です。生まれ変わると言ってもまったく同じ自我を持っているのではなくて、自我はいったん消滅し、記憶や経験はコップの水に溶け込むのです。それから新たな水滴がコップから生まれてくる、これが輪廻転生です。だから、水滴の出入りで水滴の数はピッタリと合うなんてことはそもそもないのです。

「〇〇の生まれ変わりなんだ」という輪廻肯定派も同時に否定してしまっていますが(笑)。

二つ目の「偶然の産物に意識が宿っている」という話。こちらはもっと簡単です。そもそも生命体は、人間に限らず動物を見ても、偶然に出来上がったなんてことがありえるでしょうか? よく考えてみてください。偶然に出来上がったのなら、どうして生き物の目は二つなんでしょう? 虫はその限りではないですが、塊として見れば二つ。さらに手足は必ず偶数ですよね。言い出し始めるとキリがありませんが、他にもそれぞれ考えてみてください。

もし偶然に生まれたのなら体の構成はランダムにならないとおかしい。体の形成以前に何らかの意図、意思がないことには説明がつきません。ですから、生命が偶然に出来たなんてことはありえない。明確な意思によって生まれてきたのです。

他にも輪廻否定派の意見があれば、ぜひ教えてください。アウフヘーベンしましょう(笑)。

 

命の始めと終わり

先ほど、命の初めと終わりは人間の立ち入れない領域だと言いましたが、宇宙の始まりについて科学的にはビッグバンの説が有名ですね。神話でも洋の東西を問わず幅広く取り上げられています。数ある創世神話の中から、今回は道教思想の匂いがプンプンする『先代旧事本紀』の冒頭を取り上げ、そこに前述の唯識論を合わせて、命についてまとめていきます。

上の黄色いマーカー部、「神代本紀」に書かれた内容を現代語訳で図解してみました。宇宙のはじまりが書かれています。

言わば、カオス。無の状態であり、ゼロですね。

ここで1が生まれます。無から有が生じました。

生まれた有が次第に二つに分かれていきます。1から2が生じました。

こうして完全に天と地が別れました。

違った捉え方をするなら、有限の世界である「この世」を岡潔は時空の箱と呼び、湯川秀樹が素領域と読んだ場であると見て良いでしょう。無限の世界である「あの世」は、無限であるから常世、目には見えないから隠り世とはよく言ったものです。

日本神話あるある、ややこしい名前の神様が誕生します(笑)。アメユズルヒアメサギリクニユズルヒクニサギリノミコトと読みます。天地を表す神だと思うのですが、天地を神とすることで命が吹き込まれたように感じた僕は、この神を命そのものと解釈しても良いのではないかと考えています。つまり、ここで命が生まれたのです。

命とはすなわち阿頼耶識で、命の根源。ユング的に言えば集合的無意識。ここにすべての記憶が蔵されている、別名アカシックレコード。最近ではゼロポイントフィールドでしょうか。虚空蔵、アーカーシャ・ガルバもこれに相当すると思います。天にある蔵ですね。

そして、地には泡が生じます。素領域、素粒子です。それが物質を構成し、私たちの肉体もつくっています。

その肉体に阿頼耶識がアメーバの如く入り込み、肉体に命が宿ります。私が生きているのではなく、命が私を生きているのです。

そうすると、命の宿った肉体には自我が芽生えます。これが私たちの意識ですね。

他にも物質はたくさんありますが、命の宿る物質とそうでない物質、そこに有機物と無機物の違いがあるのかもしれません。阿頼耶識は、なんぼなんでも物質全部には入れないのでしょうか。

こうして物質界、すなわち現世である宇宙が出来上がっているということですね。カオスからコスモスとなったわけです。有限の世界のなかで無限の広がりをなしていきます。

九識である仏性は、阿頼耶識の中でも深いところにあります。阿頼耶識に触れるもの全てに仏性がある、生きとし生けるものに仏性があるという法華経思想は、この図の示す通り。

さらに、十識が岡潔の言うように「真情(まごころ)」だとするなら、血流のようなものでしょうか。その血が自我まで到達している人のことを日本的情緒を持った日本人であると定義しました。

以上の図を、切り取った断面図のようにして、別の角度から見てみましょう。

集合意識が肉体に宿っている状態は一時的なものに過ぎず、命のアメーバは絶えず素領域の内外を出入りしています。物質に宿り、宿っては離れることを繰り返しています。肉体から離れたとき、肉体は骸となって物質世界でも分解されていきます。すんなりと意識が離れれば良いのですが、強い執着や未練を持った意識は、素領域外に帰らずに現世に留まってしまうことがある。これが幽霊、霊体です。いや、地縛霊か?笑

なぜ出たり入ったりするのかって?

理由はわかりませんが、みんな出し入れしたくなる意識を持ってることは間違い無いでしょ?笑

冗談はさておき、命について考えをまとめてみました。荒唐無稽かもしれませんが、これが命の実相だと思っています。

 

使命を果たす

昔、小さい子を1人で買い物に行かせるテレビ番組がありましたよね。一回ではなかなかおつかいのミッションを成し遂げられないけど、帰ってはまた出掛けてを何度か繰り返し、やっと全てのおつかいを済ませてお母さんが感動するストーリー。

これって、輪廻転生の話と同じなんですよね。

まず、オカンが夕飯にトマトソースのパスタを作ることにしたとしましょう。そこで子供にトマトを2つ買ってきてと頼みます。これが母親からの指令、天命です。

子供は意気揚々と出掛けますが、途中で何を買う予定だったのか忘れてしまいます。しかし家を出た瞬間、「おつかいをしてくる」というミッションは、たとえ途中で友達と遊ぼうが帰るまで決して変えられません。これが変えることのできない宿命。

寄り道しつつも八百屋に着くと、いろんな野菜が売っていて余計に迷ってしまいます。子供は買い物をサボって遊びにいくこともできるし、トマトを買わずに違うものを買って帰ることもできるなど、選択肢があります。この振り幅のことを運命と言います。

優しい八百屋さんと話しているうちに、「トマトを買いにきたんだった」と思い出すことができました。立命を起こすのです。

そうして無事にトマトを二つ買って帰ることができました。トマトを二つ買って家に帰ることは使命。

ところが、間違ってリンゴを買ってしまったり、きちんとおつかいができていないのに帰ったりしてしまうと、オカンは「トマト二つって言ったやん!もう一回行っといで!」と言って、ちゃんと買ってくるまで許してはくれません(笑)。テレビのお母さんのようにやさしくはないのです。それなのにまた家を出た瞬間に何をしにきたのか忘れてしまう……これを繰り返すのが輪廻です。玄関のドアから外へ出ることは即ち生まれることであり、帰ってドアの中に入ることが死です。オカンのおつかいを済ませていないと、また生まれ変わって輪廻しなければなりません。

オカンは大いなる天の意思であり、子供は現世に生きる私たち。

この世での天命を思い出し、立命を起こして使命を果たせば、家に帰って一家団欒の夕飯が待っていることでしょう。それが極楽浄土かもしれません。厳しいオカンは、買い物が終わったら次は庭の草むしりを命じてくるかもしれません(笑)。それはそれで、同じところをグルグル輪廻するところからは脱して転生しているので良しとしましょう。団欒の浄土へ一歩近づいたのです。

その使命に気づくのはとても簡単。小さな自我ではなく、大いなる意思が自分を生きているのですから、 他の誰かに聞くのではなく、自分の心に聴けば良いのです。自我のうるさい欲望を求める声には少し黙ってもらうと、聴こえてきます。純粋な下心なき声が。それが使命です。

もっと簡単に言えば、「ワクワクすることは神様から与えられた使命」という名言の通りです(笑)。

 

ちなみに、肉体に命が宿って芽生えた自我は、本能を超えてさらに欲望を膨らませようとします。本能のままに、欲望に溺れていては人間とは言えません。獣的なヒトです。ただのヒト科の動物(笑)。

その本能を、理性によってコントロールせねばなりません。自制する必要があるのです。人間には誰にでも理性が備わっており、備わっているということは必要なのだと考えるのが自然ですね。

自分を律することによって、本能の暴走を止め、ある程度に留める。つまり霊魂を肉体に良い塩梅で止めるから、霊止(ひと)。これが霊肉一如な状態であり、「ひとつ」となる、「人となる」のです。「人となり」は為人(ひととなり)と書きます。自我の欲望を抑えることで、その分を人の為に使う、これが正しい生き方でしょう。そうでなければ、「ひとつ」ではなく「わかつ」まま。霊体と肉体がバラバラな状態なまま。だから「我儘(わがまま)」と言うのかもしれません。

霊肉ひとつとなって、人の為に尽くせば、はじめて本当の意味での自由がそこにあります。自由とは、自らを由(よりどころ)とするわけで、自らとは私の本体、私を生きている命に他なりません。天の意思に従うことは、何よりも自由です。自らをよりどころとせず、他人に答えを求めたり、欲に溺れたりすることは、自らの他に由がある「他由」とでも名付けておきましょう。他由は、自由の偽りです。

 

天命を授かり

宿命を受け

運命を開き

立命を起こし

使命を果たす

そのために生まれてきたのです。

オカンから何を頼まれたか忘れていませんか?

今の生き方は、子供がおつかいをせずに遊び呆けていたり、間違った買い物をしたりすることになっていませんか?

まずは、選択肢の多い運命のなかで道をしっかりと見誤らないようにしましょう。

その指針はいくらでもありますが、今回は達磨大師の言葉を拝借。

これ、一回書いてみたかったんですよね(笑)。

知ってる方も多いと思います。他にも、「口謹めば」のところが、「己は小さく、人を大きく」ってバージョンもありますね。

よく考えたなと感心しつつ遊び心に火がついて、全然関係ないですが、眼・耳・鼻・舌・身の五感を使ったキャラクター「五感くん」を描いてみました(笑)。

しっかりと五感をフル活用して生きていきましょうね!ってことで(笑)。

そして、運命を開いた後は、天命を思い出して立命を起こしましょう。私を生きている命の声に耳を傾ければ、小さな囁きではなく、オカンのキツイ怒鳴り声が聴こえてきますよ。

「アンタ!そんなんしてる場合ちゃうでー!!」って(笑)。

そうすると、運命が開けて無限に選択肢が広がる人生に思えてくる。でも真の自由は、自分が進みたい道は一つしかなくて、実は自由は一本道であったのだと気が付くかもしれません。

そしてワクワクすることを精一杯尽くして人生を謳歌する。謳歌しながらも他者の役に立ち、心は研ぎ澄まされていく。あとは、神様の言うとおり、オカンの命じる通りに、死ぬまで神様に酷使されるブラック企業に勤め上げるだけ(笑)。

まとまるような、まとまらんような締めくくりですが、そんなところで今日はおしまい。

最後まで読んでいただきありがとうございましたー!!

↓コレいいでしょ? どうぞ、保存してばら撒いてください(笑)。著作権とか捨ててますから(笑)。全ては借り物ですしね。