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1.天とは?
「天」の漢字は、「大(人の形)」のてっぺんに「一」を加えて出来たのが成り立ちです。
人の一番高いところを指し、上のことを表しているところから次第に解釈が発展して形而上学的な意味が加わり、さらに万物の神や宇宙そのものを意味する語となっていったと推察できます。
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2.天と地のはじまり
天地の創造に関して、古来より洋の東西で多少の差はあるものの、おおまかな流れとしては通ずるところが多くあります。
ギリシャ神話の創世記ではカオス(混沌)から、大地の女神ガイアが生まれ、ガイアは天の神ウラノス、海の神ポントス、暗黒の神エレポス、愛の神エロスを生む。天や大地そのものが神であることが特徴だと言えます。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に通じる旧約聖書の創世記では、混沌と闇の世界に神が「光あれ」と命じて創造しました。混沌と共に神はすでにいたわけです。
エジプト神話にはいくつもの創世神話が残されていますが、まずはじめに海(原初の水)があり、この水の中に沈んでいた太陽や大地が姿を表していきます。
シュメール神話も、太古の昔に果てしない海があり、天の神アンと地の神キが生まれるところからはじまります。
中国神話における最初の神は「盤古」で、混沌から生まれる巨神です。巨人が大きくなって天を押し上げ、地を押し下げて天地が分かれていきます。
私たち日本の神話は、『古事記』には見られませんが、個人的に贔屓にしている『先代旧事本紀』によれば、混沌から天地が生まれており、その表現が中国と酷似しています。混沌を鶏卵と言い表したり、澄んだ気が天となり、濁った気が地となるところあたり、漢字文化と共に神話においても大いに影響を受けていることが分かります。『古事記』や『日本書紀』に道教思想が感じられるのは、古代の中国と日本が密接に関わり合っていたからなのでしょう。
各地の神話にある共通点は、「最初がゼロではない」ということ。混沌なり神なり原初の海なりがあったわけで、そこから次々と神、自然、生命が生まれてくるのです。
よくビジネスシーンで「ゼロイチ」「ゼロからイチを生み出す」と言われることがありますが、ゼロからイチを生み出すことなんて出来ない。われわれ人間にはせいぜい、あるものを掛け合わせる力しかありません。勘違いしてはなりませんね。
余談ですが、掛け合わせずにそのまま用いることを「パクリ」と言い、二つ以上を掛け合わせることで「オリジナル」となります。どうせパクるなら、2カ所以上からパクってしまえば良いんですよ(笑)。
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3.天地人
中国では天地人のことを「三才」と言います。天地人、陰陽五行など、さまざまな思想がありますが、これらをうまくまとめて図式化した人がいます。
かの有名な二宮尊徳です。
『三才報徳金毛録』に残されているそれは、まさに曼荼羅。報徳の思想家であり、農政家であった金治郎さんの、「報徳曼荼羅」とも呼べる、宇宙根本原理の解説図が多数残されています。非常に興味深いのでオススメです。
そこから天地陰陽に関する図を下記にご紹介しておきます。
解説するのも野暮なので、直観で捉えてもらえたらと思います。
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4.天の才
「天才」って言葉がありますけど、天才って一体なんなのでしょうね?
ジブリの解説などで有名な岡田斗司夫氏が、天才について定義されていましたので取り上げて考えてみます。「スマートノート」という考え方を著書に書かれていて、天才とは発想力と表現力と論理力の重なりであると定義されています。
これは面白いなと思ってナルホドと感心していたのですが、納得のいかない部分があります。というのは、天才を辞書で引くと「生まれつき」という意味が含まれていまして、これがポイントだと思うからです。
生まれつきということは、先天的な能力であって、後天的に努力することで開発されるものではないということ。「スマートノート」は、その天才性を開発する術のようなものなので、天才は開発できるものとして定義されているわけです。
間違っているとか正しいとか言いたいわけではなくて、曖昧な語は往々にして人によって解釈や定義が変わりますから、自分なりにしっかりと定義づけを出来ていないと、詰まるところコミュニケーションはうまくいきません。
そこで自分なりに納得できる定義を考えたところ(図の構成はパクって笑)、天才とは「先天性」「希少性」「卓越性」の三つが重なる才能ではないでしょうか。
先天性は生まれつき備わっていること。希少性は並外れている、つまり一般的ではなく数が少ないということ。卓越性は、他よりも特に優れているということです。
その重なりが「天才」だと定義することで自分を納得させました。
類語として、秀才、異才、鬼才といった語があります。それらには「生まれつき」といった意味は含まれていません。ゆえに秀才は「卓越性」のみで構成される、言わば優等生。希少性はないため相対的な視点は不要で、秀才は何人いても構わないのです。異才は、並外れた才能のことで、数が少ない「希少性」に寄っていますが、卓越性がることは前提となります。鬼才は、人間離れしている意味を備えていまして、表現しづらいですが、これも「希少性」「卓越性」の重なりと捉えられそうです。
あと、凡人というのはこの三つの枠外です。
定義を整理すると「天才」とは、持って生まれた数少ない優れた才能、あるいはその持ち主んのことです。
では、持って生まれてきた先天的な才能どぇあるなら、自分はもう天才にはなれないのか。ごく少数しか持っていないなら平均的な自分は凡人として諦めるしかないのか?
これが面白いところで、希少性を「人間の数」ではなく、「能力の数」で捉えれば、ある意味では人類全員が「天才」になる可能性があるのです。要は、生まれ持った「自分らしさ」というのは、他の人にないからこそ「らしさ」なわけです。これは先天性と希少性の重なりですから、それを努力して研ぎ澄ましていくことで卓越性は伸びていく。これで天才の完成です。
生まれ持った能力というのは、お金に変えやすい能力から変えにくい能力、社会で評価されやすい能力から評価されにく能力まで様々ですが、一人一人が違うということは必ず一人一人の「らしさ」があり、自分にしか与えられていない先天的な能力が必ずあると断言できます。
さて、どんな能力を秘めているのか、それらを研ぎ澄まして「天才」になるかどうかは自分次第。誰もが「天才の種」を持っている。「全員天才」って世の中になったら面白そう。楽しみ楽しみ(笑)。
ちょっと視点を変えて、個々に与えられた天才性だけでなく、「人間」に与えられた天才性、すなわち「人間らしさ」について考えてみましょう。
人間らしさとはいったい何だと思いますか?
ぜひ、少し考えてみてください。
先に誰かの「考え」を聞くと引っ張られちゃうので、ここでいったん下へスクロールするのをストップして考えてみてください(笑)。
・・・
ストップしてますか?笑
・・・
では続けます。ちなみに8日の勉強会で同じ質問をすると、「言葉」「感情」「哲学」って回答がありました。これらも「人間らしさ」ですよね。「言葉」は人間だけしか使えませんが、鳥も言葉を使いますよねって話になって面白かったです。感情は他の生き物にもあるので、人間だけに限定するのはちょっと厳しそうです。「哲学」って回答には考えさせられました(笑)。
ぼくが考える人間らしさ、人間に与えられた才とは「思考する力」です。
これも、サルに知恵があると言えばそうなんですが(笑)。言葉によって考えるという意味では「言葉」なのかもしれません。ともあれ「思考」というのを思考して(笑)、二宮尊徳の曼荼羅をパクって図にしてみました。
人間の思考において、私たちは「頭の回転が早いこと」を良しとする傾向があり、最近は「論破」といった言葉が流行っていることからも分かるように、理性に偏ってしまっているのが現代。気で言うと「陽」かな? 脳波で言うと高周波。ベータ波の14〜30Hz(分け方には諸説あり)や、それ以上のガンマ波が飛び交っているんじゃないかなと(笑)。
ストレス社会と呼ばれる所以かもしれませんが、リラックスして物事をゆっくりと考える、「考えるより感じろ」的な動きが苦手な人が多い。
ちなみに、ぼくは興奮してたりテンション上がってワーっと話している時なんかはガンマ波が出ていて、「今は30Hz以上出てるんちゃうかなー」とか、基本はベータ波の帯域をうろちょろしつつ、気が抜けてリラックスモードな時は「今はアルファ波の10Hzぐらいかなー」とか、瞑想した後なんかは「さっき5Hzぐらいまで落ちてたんちゃうか」などと考えてます(笑)。いつか一定期間脳波を測定して、自分の感覚と実際の数値がどれだけ近いのか正確に捉えてみたいなと思っています(笑)。
話が横道にそれましたが、高回転な思考ばかりに捉われがちですが、脳波を下げて頭をゆっくりと動かす(なんなら止めて笑)ことで、感じられるものがたくさんある。馬力が上がる。ゆっくり噛めば繊細な味が分かるように、ゆっくり頭を動かせば、小さな気づきがたくさんある。小さな幸せに気がつける。頭の回転力は、遅いほど感性が敏感になる。幸せの秘訣は、頭の回転の遅さにあると言えそうです。
「思考」に加えて「知る」とは何かを思考してみると(笑)、私たちは何かを知った気でいるだけで、実際は何も知らないんじゃないかという考えに辿り着きます。
だって、水とは何かを知ったつもりでいるけど、何かって問われると酸素原子と水素原子がくっついてるもの、原子は何かって原子核と電子で構成されるもの。じゃあ素粒子って……といった具合に、本質的に水そのものを捉えているのは直感でしかなく、知ったかぶりで対象とそれ以外とをただ「切り分けている」に過ぎないと思うのです。
「無知の知」とはよく言ったものですが、結局私たちは何も知らないんですよ。
そんな知らないものを知ろうとすることが「哲学」であり、「知を愛する」と言われる所以。単に分けるという作業は「科学」に分類でき、理屈で納得できない領域を「宗教」が担当している。宗教は、理屈で知ろうとしたり分けるのではなく「委ねる」ことが肝です。
宗教と言ってもおかしなカルト教団の話ではなく、「宗(おおもと)の教え」ですよ。信仰心と言っても良いかもしれません。
何度も言いますが、現代は頭の回転が早い方に偏りがち。しかし何事も本質的に捉えることができるのは、そういった論理の力ではなく感性の力。意でもなく知でもなく「情」で捉える力なのです。
学校では、意とか知の教育はするけれど、情の教育が抜け落ちている。昔はおじいちゃんやおばあちゃん、あるいは家族以外の近所のおっちゃんおばちゃんが、みんなで「情」を育てていたのです。時には激しく叱って諭したり、時には背中で語ったり、自然と「情」が育っていく環境があったのですが、今はなかなか育たない。
だから、情が育っていない人と接すると、情が育っている人からすれば「なんでそんなことがわからないの?」という思いが溢れてくる。情の育ってない人にはピンとこない。そんなことを社会に出てからいちいち教えないといけないのでしょうか。というか、社会に出る年齢になってから育つのでしょうか。
昔は誰もが当たり前に、前提としていた心。それが情です。さらに日本人ならではの情というのがあって、これが日本人らしさ。人間らしさの根本なのです。これが育たなくなった社会は必ず壊れます。
だから「和の情」なのです。
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5.人間社会と美意識
人間社会は、狩猟、農耕、工業、情報社会と発展してきました。そしてこれからはAIやメタバースが主役になっていく時代。いったい人間社会はどこへ向かっているのか、終着駅はどこなのか全く見えません。どうなっていくのでしょうね。
よりリアルなバーチャル世界を作ろうと躍起になっていて、今の社会が悩みや不安だらけだから多くの人は現実逃避したいのか、バーチャル世界への進行は止まりそうもありません。
高画質、高音質、より現実に近いもの、それどころか現実よりも綺麗な世界を目指すテクノロジー。
しかし、よく考えてみると、そもそもこの現実世界というのは「仮」の世界で、それが真理。そもそもバーチャルな世界にいるようなもの。ゴーグルつけてVR空間へ行かなくたって、目の前にリアルな仮想世界があるじゃないかと、ぼくは思うのです。
ちなみに人間の視野の解像度は、5億7600万画素。視野角は水平200度、上下125度と言われているので、ざっくり換算すれば150インチほど。目の前に150インチサイズで5億画素の超ハイビジョン、しかも360度上下全方位のパノラマ機能付きの超超超大型スクリーンをみんなタダで持ってるんですよ。50インチのたかだか4kのモニターいくらしますか?笑
リアルほどリアルな仮想現実はないんです。今は6億画素とか視力を超えた画素数の研究も進んでいるそうですが、もはや人間の目で捉えられなかったら仕方ないでしょ。
それでも現実逃避して、より楽しいバーチャル世界への憧れは止まらない。
そんなバーチャルの世界には汚れがありません。
昨今のコロナ騒動にしても、消毒や殺菌などを過剰にやり過ぎて綺麗にし過ぎることによって、その効果より弊害が上回ってしまう始末。
自然への憧れも、ジブリは好きですが、ジブリに描かれる自然は綺麗過ぎる。本当の自然はもうちょっと汚い(笑)。
本当に美しいのは何なのか。やはり情でつかむ美意識が必要なのです。
反対に、もっと楽しい世界が現実にあれば良いわけです。そのためには悩みの解消は必要不可欠。「HARMの法則」に基けば、健康、仕事、人間関係、お金、この4つが悩みの根本原因になっているそうで、逆を言えば幸せの条件? とにかくこれらの悩みをさらっと払拭してみましょう。
まず健康について。もちろん五体満足で病気はないことが何よりかもしれませんが、それが必須条件ではありません。だって、体の不自由な人や生涯病気を付き合っていく人もいるわけで、そういった人は幸せになれないのか? そんなはずはないでしょう。その状態とどう向き合うか、どう捉えるか次第です。よく「死ぬこと以外はかすり傷」って言いますよね。その通りで、なんなら死んでも打撲程度ですよ(笑)。その話をすると「死」について掘り下げていく必要があるので、それはまた別の機会に。
次に、仕事。キャリア、将来、夢です。仕事は目の前のことを精一杯位やる。その時の自分が出せる最大パフォーマンスを発揮して、成長していくしかないと思っています。また将来の不安については、「今」に不安はないので、やはり目の前にある仕事を一生懸命取り組んでいれば、先の不安というのは消えるわけです。さらに、夢が実現しないから悩みになるようですが、夢は毎日寝て見れば良いのです。
人間関係については、対人関係の悩みは、たいてい自分の思い通りにならないことが原因ですよね。腹が立つのは反応的に受け取ってしまうから。腹立つ人も嫌な人も苦手な人もなくなりませんが、誰でも子供には優しくしたり、子供がわがまま言ってても「子供だから仕方ない」と割り切れますよね。それが大人だと割り切れない……。ぼくはいつも「150歳以下は全員生まれたての子供」と思っています(笑)。だから人の言動や行動にいちいち反応的になってイラッとすることもない。だって未熟な子供がギャーギャー言ってるだけにしか聞こえないので、「はいはい、よしよし」とあやすんです(笑)。あるいは、「この人、人間初めてなんやなー。お疲れさん」みたいな感じで(笑)。だからコントロールしようなんてこれっぽっちも思いませんし、特に期待するわけでもない。子供が好きにやった結果、どうなろうとその子の学びにはなりますから、どうぞお好きに。
お金については、持ってない僕には説得力ないのですが(笑)、他の三つを解消というか、しっかりとこなしていれば、必要な分はしっかり入ってくると実感しています。僕は必要な分があれば充分なので、余分に欲しいという場合は、いろいろ計画したり勉強する必要がありますね。そこは専門家におまかせします。必要分はなんとなりますし、なんとかならないかもしれないという不安は未来のものなので、それは未来の自分の悩みであって今の自分の悩みではない。幸い、日本で生きていたら自然に餓死しようと思ったら非常に難しい。なんとかならないときも、結果なんとかなるしかないからなんとかなるのです(笑)。
話を戻して、「情でつかむ美」について。
朝、散歩をしている時、シチヘンゲという花を摘んでいるおばちゃんがいました。花が好きで愛ている姿が印象的でした。そのあと、これ本当の話なのですが、サルスベリの花を毟っているおじさんがいました。
ちなみに、この字「毟」で「むしる」って読むんですね。毛が少なるって面白い(笑)。
ちなみのちなみに、おじちゃんおばちゃんって言うけど、おじくんおばくんて言わないのは何でなのか気になりました。「さん」は「様」から変わっていったのですが、「ちゃん」は子供が発音しにくいために生まれたとされています。「くん」はそういった変化を経ていない。だから現在では、「くん」は目下の人に、「さん」は目上の人に使うのが正しい。たまに年上の人に「くん」付けで呼んでいる人を見かけますが、少々違和感がありますね。
脱線してしまいましたが、なんとなく「シチヘンゲを摘むおばちゃん」は善で、「サルスベリを毟るおじくん(笑)」は悪だと感じませんでしたか?
これを「知・情・意」それぞれで見方を変えると次のようになります。
「意」で捉えると、おばちゃんは帰って花瓶にでも飾るのかな? おじくんは嫌なことでもあったのかな? といった見方。
「知」では、おばちゃんは帰って花瓶に飾ったあと、枯れたら普通ゴミに出すとして、おじくんの毟った花は地面に落ち、そのまま土へ還っていく。そうすると、おじくんの方が環境には良いかもしれない……といった具合に理屈で考える見方。
「情」は、おばちゃんの行動を見て「なんか良いなー」。おじくんを見て「なんか嫌だなー」と感じる見方です。
この「情」でないと、本当の「美」ってのはわからない。
だから情が大切なんです。
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6.人為と自然の境界
「分別がつく」って、大人になるって意味で使われますよね。もとは仏教用語で、分別はつけてはいけないんですが、前述したように「対象とそれ以外を分ける」ということを自然科学では行います。どんどん切り別れて対義語が生まれ、たくさん分けている人のことを「大人」と呼びます。
本質と現象、自力と他力、自然と人為、こうして対義語を並べてみると、どっちが良いのかという視点に陥ってしまいがち。宇宙にはまとまると別れたくなり、別れるとまとまりたくなる原理が働いているので、統合と分化を繰り返しています。
対立する二つ以上の事象を通して、私たちは物事を理解するのですが、理解してしまった後は統合しなければならない。それが命の流れる方向だからです。しかし、二元対立によって成り立っているのがこの世界。むしろ対立構造によって成り立つ世界、それこそが真理であると説くのが西田幾多郎で「絶対矛盾的自己同一」と表現しました。
仏教では、本質vs現象を、色即是空(本質=現象)と説きました。
真言宗や天台宗、禅宗などもそうですが、自力によって悟る宗派と、他力によって救われる浄土系の宗派が対極的にあります。いつまでも「自力か他力か」って論争は終わりがないのですが、ぼくは行けるところまでは自力で行って、あとは他力で「一駅ぐらいは歩いて、あとは特急に乗ったらええんちゃうの?」って思います(笑)。
では、人為と自然の境界はいったいどこにあるのか?
自然破壊と言うけれど、多少の破壊をしなければ人間も生きてはいけない。
これを考え出したのが今回のテーマのきっかけなのですが、そんな「境界はない」というのが至った結論。ただ、考え方として「華厳経」が道筋を示してくれているので少し掘り下げてみましょう。
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7.華厳の世界
華厳の教えにある「四法界」をご紹介します。4つの世界のことで、事法界、理法界、理事無碍法界、事事無碍法界があります。
まず事法界とは、個物と個物がただ共存している世界。いわば自然と人為がある世界。
次に理法界は、真理の世界。空でも道でも天でも呼び方は何でも良いです。言葉で表せないため仮に「空」や「道」と名づけているだけですから。
般若心経でいう「不生不滅不垢不浄不増不減」の箇所が空の姿を表していて、『般若心経秘鍵』によれば、中観・三論の境地です。
理事無碍法界は、理と事が融通無碍、溶け合って一つになっている世界です。ただ現象と真理の区別はあって、悟っているとか悟っていないとかの区別がある世界です。これは天台の境地であるとされています。
最後は、事事無碍法界。事と事、個物と個物が完全に溶け合い、真理と現象の区別ない世界で、「色即是空空即是色」の言葉で表される華厳の境地です。
戦争か平和かという対立を超えた完全調和の世界と捉えると、エントロピーが増大しきった熱的死のような状態にも見えます。
空海は、『十住心論』において、この華厳の境地をさらに「実践的なもの」として真言宗を立てました。
実践するとなると大変難しそうですが、自然と人為の対立概念を超えて一体化し、それを体現する方法として言えるのは「呼吸(ペース)を重ねる」ということなのだと思いました。
自然破壊、搾取というのは、ある意味「自然本来のペース」を無視することにあると思うのです。例えば、野菜であれば本来のペースを超えてたくさん収穫できるようにしますよね。野菜のペースに呼吸を重ねて、その成長に合わせて恵みをいただくのが自然と呼吸を重ねることになるのではないでしょうか。
ちなみに、天地の呼吸と人の呼吸についても二宮尊徳は曼荼羅に残していました。
人のもっとも良い状態の呼吸は「1分間に2.5回程度」だそうで、金治郎さんはそんなことまで熟知していたのかと思うと、頭が上がりませんね。
呼吸する天地、流れる命の本質は「出会いと別れ」なのかなと思います。
結婚したら別れたくなる、別れたらまた結婚したくなる……これは違うか(笑)
一つになるということは、元のカオスになるということ。そうすると、天地が開闢するようにまた分かれていく。争いがなくなって完全な平和になると、また争いが生まれ、争いがあるからこそ平和になろうとする。往来し、繰り返し、循環する。これが生命の本質、宇宙の根本原理なのでしょう。
ちょうど先日、ガンの鳥が西の方へ飛んでいくのを見ました。七十二候の「鴻雁来(こうがんきたる)」には一月ほど早いのですが、季節の巡りを感じます。
そんな四季に沿って生きる、二十四節気、七十二候も天地と呼吸を合わせるための指標なのです。
旬のものをいただき、節目を大切にし、自然を敬ってきた日本文化。これからの時代、特に忘れずに大切にしていきたいものですね。
宇宙の流れとして、直線的に始まりと終わりがあるのか、円あるいは螺旋状で循環しているのか、これまでの考察を踏まえると「円」に軍配が上がりそうです。実際は知り得ませんが。
ただ、禅の十牛図にしても、粘菌を観察していても、やはり生命は循環しているのだと感じさせられます。
家族と過ごせることで、充実した家庭生活に幸せを感じられます。と同時に、一人の自由な時間が欲しくもなります(笑)。一人暮らしをしている時は、帰ってゴハンがあったり、家に家族がいるといいなと思っていました。人間わがままなもので、ないと欲しくなるし、あると捨てたくなる。これが人間の本質だと思っていましたが、これは生命の本質であり、相似的に宇宙の根本原理だったのです。
隣の芝生が青く見えて、仮に隣に引っ越したとすると、それはそれでまた隣の芝生が青く見える。結局自分のところにある芝生は最初から青いのです。
ぼくの逆行したがる厄介な天邪鬼な気質(笑)も生命の根本原理なのだと納得して、今回は締めくくりたいと思います。